2013年8月24日土曜日

ガーナビザ取得@ロンドン

今回はタイムリーな記事です。
2013年8月、僕はロンドンに10日間ほどいます。

主な目的は、日本の友人訪問(図々しく居候)、観光、そして、、

これから訪れる西アフリカの国々のビザを何かしら取得しようという魂胆です!

ここロンドンは、戦争に負けずいたるところに植民地を作ったイギリスの中心、それどころか、ヨーロッパ経済の中心、ということで、世界各国の大使館が集結している!ほんと何処のでもある!

そんなところで、長い間宿泊費かからずに滞在できるこの機会を逃すわけにはいかない。




西アフリカの旅行は、東アフリカと違って、ビザが若干面倒。
具体的に言うと、東アフリカは大体の国でビザを国境で発行しているのに対して、西アフリカの国々では事前に大使館や領事館などでビザを発行しなければならない場合がほとんど。
手間がかかるのです。

そのためなのか、東アフリカを回るルートよりも人気がなく、情報が少ないという泣きっ面に蜂状態。

じゃあなんで西アフリカなんて行くの?

多分、一番の理由は、僕が天邪鬼だから。
あまり知られてないところへ行ってみたい。人と違うことをしてみたい。
希少な物に価値を見出してしまうという極自然で自分勝手な理由です!
東アフリカのサバンナや動物たちがアフリカの定番なら、もっとブラックアフリカンの様子を僕は見てみたくなった。
そして、すごくワクワクしてしまっているのです。




とりあえずネットサーフィンしまくって散乱した情報をかき集めた結果、
事前に大使館で取らないと行けないのは確かなんだけど、きっちり書類とお金さえ払えば、即日や翌日に受け取れるものも多い。

「なあーんだじゃあやっぱり行ってからでもなんとかなりそうじゃん」

とか思ってしまう。

しかし、どのサイトやブログでも、面倒くさそうに書かれているのが、ガーナビザの取得!
スムーズに取れている人がいない・・・。
でも西アフリカを旅するならガーナは捨てがたい。治安も良いし、貴重な英語圏!

よし、ここ(ロンドン)でガーナビザをとろう!!




ということで、さらに情報収集を試みるも、ロンドンでガーナビザ取得した情報なんて無かった。
そもそも、長期貧乏旅行者はあまりロンドンに来ないのではないだろうか。
なぜなら物価が高いからだ。地下鉄で片道4.5£(約700円)もする。下手に出歩くだけであっという間に金が飛ぶ。
ましてや西アフリカなんて行く変わり者たち。ロンドンなんて興味無いぜ!って感じか、旅人特有の「後々行けばどうにかなる」気質なので、こんなとこでビザ取ったりなんてしない。
僕だってロンドンには来るつもりはなかったけど、せっかくヨーロッパ来たなら仲の良い友人を訪ねたいなとやっぱり思い、ならビザとれんじゃね?という妙案を、物価が高くて何もやることないから思いついただけだ。




まあ大使館はあるんだし、行ってみればいいじゃん!
ということで、僕は朝からHighgate Hillにあるガーナハイコミッション(ハイコミッションってなに?)に行ってみた。

僕「ビザを取りたいんですけど。」

玄関のおっさん「申請用紙を埋めて持って来い!」

僕「では申請用紙を下さい。」

玄関のおっさん「ここにはない。自分で印刷して持ってくるんだ。」

申請用紙くらい置いとけよ気が利かないな。
というわけで、駅周辺のメインストリートへ戻り、ネカフェを探す。
ちなみにこのあたり、HIghgate Hillというだけあって、急な坂道があったりする。特にガーナハイコミッションは坂の上にあり、この往復は中々疲れた、、、。

バングラデシュ人が営む小さなインターネットカフェを発見し、そこで申請フォームを入力することに。
チャイを出してくれて、すげー懐かしい感じがした。



さて、今更ながらそもそもなぜガーナビザは面倒くさいのか。
実は、ガーナという国はビザを発行する際、申請者は自分の居住国でしか発行・受領ができないことにしている。つまり、僕がガーナビザを取得するには、日本の在日ガーナ大使館で手続きするしかないということだ。
では、今までガーナを旅した旅人は、皆日本にいるときからガーナに思いを馳せ、事前にしっかりと日本でビザをとっていたのだろうか。そんなはずない。
旅とは行き当たりばったりなのだ。もちろん日本から温め夢見ていた場所もあるが、旅の途中で新たな興味が湧いて、進路を変更することなどざらにある。僕だってガーナに来る気は無かった。そもそもガーナビザは発行から3ヶ月以内に入国しないと無効になってしまうし。

そうつまり、「申請者の居住国でしか発行できない」など建前に過ぎないのだ!!
チャレンジあるのみ!



無論、僕がネカフェで入力した申請フォームも「UK専用」であり、住所も"Country"が"UK"か"Ireland"しか選べない!!から適当に書いて埋めた!!
とりあえずイギリス国民になりすまし、問題なくフォームを送信。なんかレシートみたいのをゲットすることができた。
ダミーのホテル予約証明書も作成し、完璧。



再び坂を登り、ガーナハイコミッションへ。
窓口にゲットしたレシートみたいのと写真2枚と埋まった申請書コピーを提出。ホテル予約証明書はダミーでちょっと怖いから言われるまで出さないもんね。
申請書コピーのチェックが終わり、「パスポートを出して下さい。」と言われる。
平然と日本のパスポートを出す。

窓口女「イギリスに住んでいる者にしかビザを発行することはできません。あなたは日本に戻って、在日ガーナ大使館へ行って下さい。」

うん。知ってる。
そしてそれが建前だということも知ってる。

僕「それがなんとかなりませんかね。日本にはまだ戻らずにこれからアフリカに行くんですよ。ガーナ行ってみたいんですよ。頼んますよ。」

と食らいついてみる。とりあえず「ガーナは良い国」と繰り返す。
すると、

窓口女「となりの窓口へ行って下さい。」


なんでたらい回しに、、、。言われた通りに隣へ。そこは男性職員。
うわぁ力で追い出されるかな、とか怖がっていると、「事情は分かった」という風に、パスポートを受け取ってくれ、ビザ代会計手続きまで進んでくれた。

えぇ?予想以上にあっさり折れてしまってなんか逆にがっかり。拍子抜け。
ホテル予約証明書も結局提出要求されなかったし、、、せっかく作ったのに、、、。
しかもビザ代先払いって、、、。
これには少し驚いた。今まで、ビザ代は発行されてパスポートを受け取るときに払った。それは理にかなってる。だってもしかしたら、ビザが下りないかもしれないからだ。
でもガーナビザは先払い。しかも100£(15,000円)と高額な代金をだ。
まあこれは僕が翌日受け渡しを希望したからで、本来ならもっと安い。

こりゃあもう取れただろうなと早くも安心してしまった。


翌日言われた通りの時間に再び坂の上ガーナハイコミッションへ。
控えを渡すや否や、乱暴にパスポートを返された。しっかりとガーナビザが貼り付いている。

というわけで、無事ガーナビザ取得できました!しかもかなりスムーズに!これは嬉しい。
早くもガーナへの期待膨らむ。ビザダサッッッ!


結論、
きっとガーナビザは何処でだって取れる。

でもロンドンで取れば比較的楽だと思いますよ。高いけど、、、。

2013年8月20日火曜日

デベタシュカ洞窟への行き方 inブルガリア

イスタンブールからバスに乗ってブルガリアの首都ソフィアへ。
4ヶ月かけてアジアを抜け、ヨーロッパに入った。

その記念すべきヨーロッパ第一カ国目にブルガリアを選んだのは単純に、イスタンブールでからバスで入国することができたから。そこがヨーロッパであることに胸がいっぱいで、ろくにソフィアのことも調べていなかった。

でも、ブルガリアには、行ってみたいところがあった。
インドのアウランガバードで出会った日本人夫婦の旅人に教えてもらった秘境。
「デベタシュカ洞窟」だ。

今回はそこへの行き方を是非ここで紹介したい。
なぜかというと、日本語によるデベタシュカ洞窟に関する情報が、あまりにも少なかったからである。

これじゃ行きたいのに行けない!

僕がこの洞窟へ行くためのより確実な方法をここに記すことで、もう二度とそんな無念を抱いて散ってゆく旅行者が出なくなればいい。


まず、
そもそもデベタシュカ洞窟ってなんだ?
別に知らないしどうでもいい。
という人に、その魅力を紹介します。


綺麗じゃないですか?行ってみたくないですか?
ということでここまでの行き方を紹介します。

この洞窟から一番近い大きな街は「Lovech(ロヴェチ)」といいます。
まずそこまでソフィアからバスで行きましょう。
距離にして150kmほど離れていて、2時間半ほどかかります。

ソフィアの北にある一番大きなバスターミナルで、ロヴェチまでのチケットは簡単に買えました。
値段は忘れた・・・。

何本かバスはあると思いますが、僕は日帰りの予定だったため、午前8時半のチケットを買いました。

結局バスは30分位出発が遅れ、ロヴェチに着いたのは11時半頃。
さらにバスを乗り換えます。洞窟はロヴェチから約20kmです。

ロヴェチにはバスターミナルが一つしかないので、そのまま動かずに乗り換えはできます。

ここから、LetnitsaLevski行きの小さなバスに乗らなければいけません。
行き先はこの二つならどちらでも構いません。
そのバスが発着するプラットフォームは一番端で、チケット売り場にいるおばちゃんに聞いても教えてくれますが、キリル文字でしか表記がないので、不安だったらバスを待っている人たちに尋ねるのもいいかもしれません。

確か12時半頃にこのミニバスに乗れました。次のバスは13時半とかだったと思います。
このどちらかに乗らないと、日帰りでソフィアに帰るのは厳しくなるかもしれません・・・。
なぜかというと、ソフィアにもどるバスが、16時の一本しかないからです。
チケット売り場に貼られている時刻表にはもっと遅い時間もありましたが、どの売り場のおばちゃんに訪ねても今運行している一番遅いソフィア行きのバスは16時のみとのことでした。

さあ、このLetnitsaかLevski行きのミニバスに乗って、どこで降りればいいのか。

実はデベタシュカ洞窟の近くにバス停はありません。
なので、ミニバスの運転手さんにこう言いましょう。

「デベタシカ!デベタシカ!(ひょうきん)」

すると、運転手さんはもちろん、周りの乗客までもが
「そうかそうかお前はデベタシュカへ行くのか」となぜか車内に連帯感が生まれます。

たちまち「洞窟に行くひょうきんなアジア人」と有名人になれます。

そうとなればこっちのもの、デベタシュカ洞窟へ続く小道の前でバスは停まってくれます。
「デベタシカ?」と呟けば、車内一斉に「デベタシカ!!」と言ってくれるので、
確固たる自信が湧いてくることでしょう。最後は笑顔でみんなに手を振りましょう。

ミニバスは30分くらいで着きます。
そしてここが、そのバスが降ろしてくれる小道前です。



なんて綺麗な空!左に伸びているのが洞窟へと続く道です。ほんとかよ!ってくらいなんもなさそうですが、取り敢えず歩いてみましょう。



こんな道を歩いていく。



















周りにはひまわり畑が広がっていて綺麗。7月です。

すると・・・


















突然現れました!これがデベタシュカ洞窟入口です。
なんてったってデカい!右下に人がいるのがわかりますか?いかにこの洞窟がデカいかお分かりいただけると思います。なんでも一番高い天井で60mに及ぶとか。

そしてこんなに大きく、地下洞窟や鍾乳洞でもないのですが、この洞窟、冷気がものすごい。
洞窟が見える前に、「あれなんか涼しくなった?」という感覚があると思います。
まるで息をしているように、冷気を吐き出しているのです。

正直、この大きさだけでもう大興奮していました。
しかし中に入ってみると、さらに息を飲む光景が。



















少し奥に入って、入口側を見た景色です。一番奥の穴は入口です。
この洞窟の不思議なところは、天井に大きな穴がいくつか空いていることです。
そこから日の光が降り注ぎ、さらに洞窟内に流れる川によって、所々に緑が茂ります。
洞窟の中らしからぬその光景が、人々を惹きつけるのだと思います。

打って変わって、洞窟の奥は、恐怖心すら抱く闇。立ち入り禁止となっています。
この洞窟は、ヨーロッパ最大のコウモリの住処ともなっていて、暗闇からはコウモリの甲高い鳴き声だけが不気味に聞こえていました。

観光客はいましたが、ほんの数人。ましてやアジア人など見かけませんでした。情報が少なかったことも頷けます。おかげでゆっくりとした時間を過ごすことが出来ました。

この美しさを誰かと共有できたら素晴らしいなと思った一方で、
このまま観光地化されずにひっそりと人々を魅了して欲しいなとも思いました。


さて、大事なのはここからどうやって帰るのか!
ソフィアに帰るには、16時のロヴェチから出るバスを逃すわけには行きません!
実際洞窟自体は立ち入り禁止区域もあって、観光にさほど時間はかかりません。
1時間もあれば十分でしょう。

13時に洞窟について、遅くても14時過ぎには観光は終わる。
ロヴェチからソフィアまでのバスは16時。洞窟からロヴェチまではバスで30分程度。
一見、余裕そうに思える。

が、デベタシュカ洞窟にはバス停がありません!!
じゃあどうするか?とりあえずミニバスを降ろされた小道前まで戻ります。
14時20分に戻りのミニバスを拾えるとの情報もありますが、定かではありません・・・。
実際、僕はその時間にはもう道に戻ってましたが、バスを見かけることはありませんでした。
ということで!!


ヒッチハイクです。低めです。隙がないです。
意外と車は通ります。粘って粘って10台くらいにスルーされて、ようやくおっさんが運転する車が止まってくれました!

この近くの大きな街はロヴェチしかなく、距離も20kmと近いので、そっち方面に走る車ならだいたいロヴェチは通ると思われます。

そのおっさんも快く乗せてくれました!!
しかしこのおっさんファンキーすぎて、速度120kmから緩めることをしません。おまけにめちゃくちゃ話しかけてきて超脇見運転。ブルガリア語でです。
街に入ってもお喋り運転をやめず、赤信号に気づかず前の車に追突しそうになり、急ブレーキで車が蛇行した時にはさすがにキレそうになったぜ。
まあおかげでたった10分で、ロヴェチに到着!余裕を持ってソフィア行きのバスに乗ることができました!



以上!デベタシュカ洞窟までのアクセスでした!
肝は言わずもがな、帰りのヒッチハイクです。これが捕まらなかったら洞窟周辺はなんにもないのでかなり面倒です!バスの時間の16時に間に合わなくても、諦めずに続けて、せめてロヴェチまでは戻りましょう!



2013年7月21日日曜日

イスラエル!!地獄の入国!

前々回の記事で、僕がイランの後に訪れた国の名前を挙げたけど、イスラエル入れるの忘れてた!

ごめんイスラエル!
イスラエル良い所だったよ!
ってことでイスラエルについて書こうと思う。

良い所とは言ったけれど、最初の印象は正直最悪。
イスラエルは入国審査が厳しいとは聞いていたけれど、想像の域を遥かに超えた。
僕がイスラエルのベングリオン空港に着いたのは夜中の0時前。飛行機を降りて、パスポートコントロールまで、あの長い道、どこの空港もたいていありますよね。動く歩道とかあるやつ。
その、パスポートコントロールまでまだ至らない手前で、いきなりセキュリティの人に捕まり、尋問される。これがまた長くてシビア。立ったままここですでに30分くらいは問いただされた。
内容は、
・イランで何したのか
・イランのどこに訪れたのか
・なぜイランに行ったのか
・イランに知人はいるのか
・カウチサーフィンで会ったイラン人の名前は何か
・イスラエルになぜ来たのか
・イスラエルのどこで何をするのか
・イスラエルに知り合いはいるのか
・カウチサーフィンで会うイスラエル人の名前と電話番号は何か

ご覧の通り、イランに訪れてしまったのが長い尋問の原因。でもそもそもアジア人が多くセキュリティの人に足止めされてた気がする。後で調べると、イスラエルの空港で暴れまくった日本人テロリストがいたらしいね40年くらい前。それが関係あるかは知らないけど。

やっとパスポートコントロールに辿り着くも、今度はパスポートを取られ待合室で待てと言われる。

ちなみに、イスラエルのスタンプがパスポートにあると、入国を拒否される国がいくつかある。周りのアラブの国(イスラム国家)にしてみれば、勝手に自分たちの土地に入って来て住みついて建国したユダヤ人は嫌い!だから。お察しの通り、イランもその一つ。
だからわざわざイスラエルのパスポートコントロールで「NO STAMP!!!!」って言わないと、中東旅行できなくなっちゃうよ!とか言われてましたが、今はもう旅行者にはイスラエルの審査官自ら、スタンプ不要かどうか聞いてきます。そもそも、「PLEASE STAMP!!!!」と逆に言わないとスタンプ押されないんじゃないですかね。

まーとにかく!僕は待合室に通されたんです。待合室には他にも人がいたので、スタンプの代わりに発行されるカードをもらうのに、旅行者は待合室で待たされるのかーとこの時は思ってた。

待合室には時々保安官みたいな人が来て名前を呼び、呼ばれた人は取り調べ室みたいなところに入っていった。
しかし!中々僕の名前が呼ばれない。
もう待合室の人は次の便の人に入れ替わってる。引き続き待たされているのは、僕とトルコ人家族くらい。

眠い。なんやかんやで3時間弱くらい待った。つまりこの時夜中の3時すぎ。
そしてようやく!僕の名前が呼ばれ、取り調べ室に案内された。

女性保安官が怖い顔して座ってる。
なんで怒ってんの?旅で会得した愛想笑いも全く通用せず、淡々と尋問された。内容は、上で挙げたものとほぼ同じ。もう少し掘り下げられたけど。


しかしここで僕はミスを犯す。
僕には、パレスチナ自治区に、会いに行こうと思ってた人がいた。
一方、テルアビブとエルサレムではカウチをする予定だったから、そのホストの名前を保安官に教えたとき、「もうイスラエルに知人はいない?」って聞かれた。この時は特に何も考えてなくて、尋問が広がるのが面倒だったのもあって、パレスチナ人の知人については触れずに「いないっす。」って答えてしまった。
しかし!僕は「イスラエルで何するの?」と聞かれて、「西岸地区(パレスチナ自治区)も行こうかなーなんて思ってます」と答えてしまい、ここから墓穴を掘ることになる。

以下、尋問の流れ。

保「なんで西岸地区行くの?なにすんの?」
僕「いやー実は、西岸地区に知り合いがいるんで、会いに行こうかと。」
保「さっきイスラエルにはもう知り合いいないって言ったよね?」

僕「だって西岸地区はイスラエルじゃないじゃん」

保「は?」

完全な失言!なんて危なく挑発的な失言!女性保安官のコメカミがピクリとしてました。ここから怒涛の質問攻め。
「誰がそんなん吹き込んだん?」
「西岸地区がイスラエルじゃないっていう根拠はなに?」
「お前の大学でそう教わったん?」
「それともイラン人がそう言ったんか?」
「それともそのパレスチナ人か?」
「そのパレスチナ人の名前と電話番号と住所教えろや」

とまぁこんな感じで結局尋問が長引き、1時間くらい閉じ込められましたね。僕は終始オロオロしながらその場しのぎな適当な答えで逃げ回っていたので、ようやく解放された時も保安官は疑惑の目で僕を見ていました。

そしてようやく!ようやく!
明け方午前4時頃、僕のパスポートが返ってきました。気づけば待合室で待たされて取り調べなんてされてたのは僕だけになってました。

入国できれば問題なーい!
コンベアーから放り出されたバッグを背負い、意気揚々とアライバルロビーへ!

しかし…

また捕まる(´・_・`)

今度は荷物検査のおっさん。
僕の大きなバッグを機械に通しても納得出来なかったらしく、ここで広げろと言ってくる。
まじかよ…。イスラエルが遠い…。

チャックに付いてる鍵を取ると、ガサゴソと勝手に探り出される。僕はただ傍観しながら、「これはなんだ?」という質問に答える。

と、ここでイスラムに関する本が出てくる!
前回の記事で触れた、トルコで出会ったムスリム一家の奥さんに、「これを読めば、きっと貴方の人生が良くなる。神を信じてみて欲しい。」と渡された、イスラムの教えやムスリムの体験記が書かれた本5冊だ。

ここまでの尋問で、「お前はムスリムか?」と何度か聞かれたので、この本が出てきた瞬間に、「僕はムスリムじゃないよ。それはムスリムの知人にもらったんだ」と先に言ってやった。

すると、

荷「だからなんだ?ムスリムだったらなんだっていうんだ?」
僕「いや、ムスリムかどうか前の尋問で聞かれたから(イライラ)」
荷「ハッ!俺が今何を探してるか分かるか?麻薬だよ。お前は麻薬を持っていないか?」
僕「NO!! 持ってるわけないだろ」
荷「ハッ!持ってても"Yes"と言うやつなどいないがな!」


ハァアァぁ!?
絶対僕が何も言わなかったらムスリムかどうか聞いただろ!てかなんだよ麻薬のくだり!じゃあ持ってるかどうかなんて聞くなよ!

苛立ちが最高潮に達して、ようやく、今度は本当に、解放されて、アライバルロビーに出られた。もう外は明るくなっていた。

さて、どうやって街にでよう。電車もバスも空港に止まる様だから、きっと簡単だろう。
両替所の人にテルアビブ市街への行き方を尋ねる。

「今日は土曜日。安息日だから電車もバスも夜の21時30分まで動かないよ。」





え?






え?




何言ってんの?まだ朝の5時過ぎだよ?

タクシーならあるらしいけど足元をみて高額な料金を請求してくるらしい…。
土曜着の航空券だけ何故か安かったのは、こういうことだったのか…。

結局僕は、21時30分まで空港の中で待ったのであった。
到着時から計算すると、ざっと20時間以上空港に居たことになる。

これは、昆明の空港での記録、17時間を上回り、空港滞在時間記録歴代第1位に輝いた。

その間にも、僕は軽い尋問を2人くらいから受けた。しかし今度は暇すぎて、わざと怪しげな動きをして尋問を招いてやろうかと思うほどだった。


これが僕の、イスラエルでの1日目。心身共に削られたよ…。

なんかもうイスラエルの街、テルアビブやエルサレムについては書けなかったけど、本当、イスラエルは観光するには面白い所たくさんあります!

物価は高いけど、小さいチョコクロワッサンは安くて美味しいし、テルアビブの街並みは現代的なオシャレさがある一方、三大宗教の聖地であるエルサレムは歴史を感じる古き良き街並み。死海なんてどう足掻いたって浮いてしまうのが楽しすぎる!目に海水入った時は失明を覚悟するほどの激痛!
行ってないけど最南端は紅海に面していて、ビーチと海がめちゃくちゃ綺麗らしいです!イケメン、美人も多し!

厳しい入国審査もネタにできる良い経験と思えば、訪れる価値しかないぞイスラエル!褒めすぎた!






2013年7月17日水曜日

最近ニュースをみて思うこと

もう1ヶ月前になるけど、僕はトルコにいた。

トルコに抱いていたイメージ、それは「親日国」。みんな日本が大好きで、日本人と言えば優しくしてくれる。そんな楽観的なイメージを持っていたな。

そして結論から言うと、別にそんなことは無かった。女性にモテた、優遇された、そんな経験はこれといって僕には起きなかった。
トルコ人の男性に限って言えば、彼らは女性好きだ。親日ではなく、「親日本女性」というべきほどに、日本人女性に対するトルコ人男性の待遇は良かった。
例えばホテルで、借りるのに5リラかかるタオルを、すんなり日本人女性が無料で借りていたり、明らかに口調が日本人女性には柔らかかったりした。

トルコ人はお金にもシビアで、いつものノリで値下げ交渉したら、ガチギレされて店を追い出されたりした。

「貧乏」でそれでいて「男」なんて、日本人だろうとなんだろうと鬱陶しがられる。どれもイスタンブールでの経験だけど。

そんな、少々がっかりさせらたトルコで、誰よりも優しくて、暖かい人々に、僕は出会えた。

パムッカレという観光名所から100kmほど離れた小さな町に住む家族だ。

彼らは敬虔なイスラム教徒だった。
そして彼らのそのホスピタリティは、紛れもなく、イスラムという宗教に基づくものだった。

僕が今更ながら彼らのことを紹介したのは、単にその思い出に浸りたくなったからではなく、いま中東と呼ばれる地域が、とても混乱しているからだ。

イラクの北部での爆弾テロ、米軍によるパキスタンやアフガニスタンへの攻撃、エジプト軍によるクーデター、トルコでのデモ。

これらの混乱で、いつも大きく報じられているのは、イスラム教。

まるでイスラムは悪で、攻撃的である。少なくとも日本にいた頃、僕はそんな印象を抱いていた。
もし、日本にいる人が、今、そんな風に感じているのなら、僕はそれは偏った報道による、偏った意見だと思う。

僕も混乱の原因を詳しく知っているわけではないけれど、宗教が、それを信じている人々が、根本的な争いの原因になるというのは、違う気がするんだ。

ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、仏教。いろんな信仰を持つ人と出会った。

いつだって、宗教は人々の生きる糧で、信じる人を強く、優しくて、社会に包容を与えていた。
宗教はそういう風に出来ていた。

結局、国と国との争いや、政治を揺るがす内乱なんて、人間のエゴとエゴのぶつかり合い。宗教間の争いなんて、都合の良い後付の理由に過ぎない。その表面だけを鵜呑みにすると、本当に宗教間でいがみ合ったり、宗教を蔑んだりする空気が生まれるんじゃないかな。

その裏に隠れてる、いや、意図的に隠されている狙い。人間の欲望。それは何なのか。色んな情報を得よう。

それが分かったからなんだ。
何の解決にもつながらないし、僕にできることなんて何もないかもしれない。ただその欲望の渦に飲まれたり、遠くから眺めたりするだけで、余計に苦しくなるだけかもしれない。

でも偏った浅はかな判断で、あの宗教が悪いとか、あの人種が悪いとか言ってたら、今度はそれがほんとに根本になって、肥大した欲望と絡み合って、取り返しがつかなくなりそうで、怖い。混乱してる今だからこそ、知って、認め合う時なのだと思う。

もうすぐ5ヶ月

久々の投稿。
イランから何も書いてなかった!

これまでのブログは、毎日色々感じたり、小さな発見がある中で、特別にビビっと来た感覚や考えを書いてきたんだけど、ここから先はもう少し気を緩めて、滞在していた街の様子や、旅の情報を発信して行こうかなと思っています。

旅中の情報収集で、何よりも力になるのが、ガイドブックでも、外務省のHPでもなく、実際にその国に訪れた人の情報ノートやブログ。僕も既に何度も助けられました。
僕の経験や、僕が得た情報も、ただ僕の中だけで終わるよりも、誰かの助けになったら、これほど嬉しいことはありません。
今更ながら情報を記録しておくことと、それを発信して行くことって大事なんじゃないか?!と思い、Twitterも活発にやろうかな!と意気込んでいます。

さらには、今は人と一緒に回っているので、良くも悪くもあまり考え込まずに、楽しもうぜ!みたいなノリにあって、今まで書いてきたようなネタが浮かばないのも理由の一つです。

もちろんまた何か特別に思うことがあればここに記して、より濃いブログになればいいかななんて思った。

さてとりあえず、イランを出て僕は、
トルコ→ブルガリア→ギリシャ→マケドニア→セルビア(now)です。
いつの間にかアジアを終えて、ヨーロッパに入っています。

ヨーロッパは今のところ非常にイージー。
国境は全部バスの中で待ってれば運転手が済まして来てくれる!
東は物価も安くて最高です。

こんな久々に満たされた中で、次の大陸アフリカについて調べれば、俄然やる気が無くなるのも当然ですね。

ビザが面倒、賄賂が高い、政情が不安定、治安が悪い、黒人が強いなど、調べれば挙がるものは不安要素ばかり。
無意識に、スペインからの帰国の便を調べちゃうほど。

とりあえず今の段階で決めた西アフリカルートを掲載するぜ!

モロッコ
西サハラ
モーリタニア(ビザ@スペイン、モロッコ)
セネガル(ビザ@ネット?要調査)
ガンビア(ビザ@セネガル国境)
ガーナ(ガンビアからフライトイン。ビザ@セネガル)
トーゴ(ビザ@国境)
ベナン(ビザ@国境、アクラ)
カメルーン(ベナンからフライトイン。ビザ@空港)
ガボン(ビザ@カメルーン)
南アフリカ(ガボンからフライトイン)

なに?モロッコと南アフリカ以外知らないって?僕もだぜ!

早速ここで、僕に情報発信の使命が課せられた。
というのは、上のリストにあるセネガル。この国、西アフリカでは唯一?日本人観光ビザ不要の国として、西アフリカでは人気(誰に?)の国だったんだけど、なんと今年の7月(2週間前)からビザが必要になったぜ!
めんどくせっ
もちろんビザ取得情報はまだ皆無に等しい。
セネガルビザ海外取得パイオニアに、なってきます!

2013年6月9日日曜日

砂漠とトカゲとフンコロガシと僕

イランの中央、不毛の大地に囲まれたオアシス都市、ヤズド。古き良き雰囲気の残る旧市街は、土壁の低い家が並んで、道を複雑に絡ませる。面白そうな方へ、歩いて、迷って、突然小路から飛び出してくる子どもと挨拶を交わすのは、ヤズドの一つの楽しみ方だ。

街は小さく、メナーレが青空に突き刺さる歴史的なマスジェデや、人々の生活を支え続けるバザールも、歩いて回ることが出来るが、近郊にも魅力的な見所が在る。

ゾロアスター教徒の墓地の跡、「沈黙の塔」。土や火を神聖なものとした彼らは、土葬や火葬はそれらを穢すものとし、この地で鳥葬を行った。遺体を鳥に食わせたのだ。
その他にも、ヤズドとその近郊には、ゾロアスター教徒の歴史を知るうえで、重要な場所がいくつかある。そして彼らの後裔は、今なおこの地で暮らしていたりする。

しかし、実のところ、僕はそのどれも訪れなかった。
僕がこのヤズド近郊で、最も惹かれて、そして足を運んだ所は、今までどんな人間も、そこに歴史を築こうと思わなかった、砂漠であった。

インド、ウズベキスタン、UAE、オマーン。いろんな所に、砂漠はあった。どこにも僕の足跡を残すことはなかったけれど、何故かこのペルシャの地で、砂漠に足を踏み入れたくなったのだ。

タクシーをチャーターして、ヤズドから100km離れた砂漠を目指した。といっても、ヤズドの街を出てしまえば、景色はすぐに物寂しそうな砂漠になる。けれどそれは、砂利と岩山でつくられた、なんとも色気のないもので、時速120kmで進む道中は退屈だった。

ナツメヤシの木が茂る、小さな村を抜けて、車は止まった。後部座席の窓から除く限り、僕らを囲うのは相変わらず頑固そうな砂利砂漠。まさか、このいささか面白みに欠けた荒野をひたすら歩くわけじゃなかろうかと、疑いながら車を降りると、開けた前方の視野に、突然、細かな砂粒から成る砂漠が飛び込んできたのだ。

優しく、柔らかにうねる砂丘が幾重にも重なる。僕の足は意識よりも早く、一番高い丘に向かって歩き出していた。

風がつくる砂山とその肌の模様。そこに暮れ始めた日の光が降り注ぐ。風の向き、日の傾き、砂漠は生きているかのように、動いていく。姿を変えていく。僕の足跡は、それに飲まれていった。

丘のてっぺんに立って、辺りを見渡せば、僕の歩みを重くした砂山のその美しさに、疲れは癒される。ツンデレ女に弄ばれているようだけれど、その美貌は見惚れてしまうほどだった。

ただの砂地に、当然の自然の摂理が働くだけで、僕は美しいと感じてしまう。

足音も立てずに這う、フンコロガシの目には、この砂漠はどう写るのだろう。滑るように走るトカゲの目には、この夕日はどう写るのだろう。
いつものことだと、当たり前のことだと、息をするように受け止めているのだろうか。

僕は、こんな当たり前の現実が美しい。息を飲むほど、涙をおぼえるほど、美しいのだ。

人に揉まれ、時代に流され、僕は汚れてしまったのだろうか。
もしそうだとしたら…

汚れゆくことも、悪くないと思えた。
当たり前のことに、無知でありたいと思えた。


イラン人は偉大なり

"Welcome to Iran"

街を歩いているだけで、すれ違いざまに、暖かく迎え入れられる。
こちらも笑顔を返さずにはいられない。

人々のホスピタリティが、空気にまで染み付いているような、イランはそんな国だ。

意味もなくキャンディをくれたり、丁寧にバスの乗り方を教えてくれたり、時には車で送ってくれたり。思いやりに胡座をかくことが、くせになってしまいそうだ。

なんとなく中東だからとか、核兵器を保有している疑惑があるだとかで、「危険な国」と判断されがちなイラン。しかし実際訪れてみれば、こんなに安全で、旅人に優しい国が、他にあるのだろうかと思う。都合よく切り取られた、ほんの一面だけを見て、全体を判断してしまうことの愚かさを思い知らせてくれる。

Islamic Republic of Iran。国の法律や制度にまで、宗教に因る所があるこの国は、もちろん人々の信仰心も強い。サラートの時間には、家の中でも、公園でも、メッカに向かって祈りを捧げる。金曜日には多くの人がモスクを訪れる。日本では宗教というとマイナスのイメージが強いけれど、これだけ素直に宗教の教えを信じ、それに従う人々の姿をみると、彼らの優しさは、イスラム教に起因するものなのではないかと思ってしまう。

しかし、もちろん中には宗教の枠に収まることを嫌う人もいる。

シーラーズで建設会社に勤める男性と話した時のことだ。

「お前はどの宗教の信者だ?」

日本の外に出れば、先ず聞かれるありふれた質問だ。僕も旅の途中で数多くの人から尋ねられ、定型文のように、答えは用意されていた。

「僕は無宗教だ。日本では仏教や神道の側面をみることができるけれど、多くの人はそれを信仰しているわけではなく、無宗教だよ。」

すると彼は笑いながら、

「最高だな。俺もイスラム教なんて糞食らえだと思ってるよ。ロクに女の顔も見れないしな。」

と言った。やっぱりこんな人もいるんだなと、スカーフが乱れた女の人の髪を見るたびに奇妙な罪悪感を抱いていた僕は、少し安心した。
けれど、次の彼の質問に、僕は漫画のように、意表を突かれてしまった。

「でも神は信じる。お前もそうだろう?」

僕の頭には何も浮かばなかった。僕にとってそれはあまりにも斬新で新鮮なアイデアだったから。

「僕は…。」

きっと神様を信じていない。だけど、「宗教=神を信じること」だと無意識に決め付けていた僕にとって、「宗教は信じないけど、神を信じる。」というテーマを前に僕の思考は混乱に落ちた。

それは一体、どういうことなんだろう。彼の言う「神を信じる」ということは、どういったことなんだろう。

僕はこの旅を通して、神の存在を認めるようになった。けれど、神の言うこと為すことに従おうとは思わない。何にしたって自分の感覚を信じて生きていきたい。でも…。

「わからない…。」

何も聞けず、何の答えも出ず、ただ弱い声が漏れた。
そこからこの話が弾むことはなかった。




そんな少しアウトローな彼も、僕への敬意と気遣いには頭が下がるばかりだった。当たり前だけど、信仰心の強さ=ホスピタリティの高さというわけでもないようだ。
なぜこんなにも、何処の馬の骨かもわからない、彷徨える訪問者に、まるで親のような、兄弟のような心を持つことができるのだろうか。

テヘランで僕のホームステイを受け入れてくれた男性の家族を訪問したとき、彼らは生粋のムスリムだったけれど、その疑問に対する、シーラーズの彼とのやりとりにも綺麗に辻褄の合った答えを、彼の言葉の中にみつけた。

"Guest is a friend of God"
「客人は神様の友達」

なるほど。


きっと、「神を信じること」は、この国で生きていくうえで、イスラム教徒であるとか以前に、最も重要なことなのだ。その理念は、無意識のうちに、多くの人々に浸透していて、さらにその上で、あらゆる人種や出来事を受け入れることができる考えが存在している。
神を信じていれば、寛容な人間になることができ、結局神を信じていない人も、窮屈することなく暮らせる。

神は、争いを防ぎ、生活と平和を円滑にするために、誰かの中に存在している。
ここまで多くの人の中に居るのは、ただ神の偉大さだけによるものではなく、やはり人による宣教や政治の賜物ではあるのだろうけれど、、、

やっぱり凄いですね、神様、あなたは。
仲良くしようぜ!



2013年5月27日月曜日

美しい遊牧民

青く美しいイシク=クル湖。それを囲う山脈は白く輝く。緑の丘は、暖かな日の光を浴びて、鮮やかな緑のコントラストをもって、その豊かな緩急を表す。この目の前に確かに広がる、宝石と見紛うようなキルギスタンの自然を、より確固たるものにしたくて、言葉にしようと試みれば、それがあまりに浅はかで、愚かな行為であると諭され、僕は言葉でも、感情でもない次元で、その雄大な自然の美しさを感じるのだ。

自然は美しい。

湖沿いの小さな村、ボコンバエワから山の方へうねる砂利道を15kmほど進むと、ボズ=サルクンと呼ばれる高原に辿り着く。純白を纏った山が、ぐっと近くなる。

馬に乗った遊牧民が、犬を従えて、羊を誘導する。何十匹もの羊が、一斉に右へ、左へ、彼らの思うように進む。
遊牧民は、風と共に、山と共に、生きていた。

彼らを見ていると、これまで抱いてきた、「自然は美しい」という考えに、亀裂が生じた。

人間である彼ら遊牧民も、美しかった。それはキルギスタンの自然に感じたものと同じ美しさだった気がした。
と同時に、きっと無意識に、目を背け、忘れたふりをしていた事実に気づかされた。

人も自然の一部なのだ。

この大地、水、空は、僕とは別世界でも、他人事でもなく、僕はその一部で、それらは僕の一部なのだ。
それならば、ただ美しいと傍観するだけでなく、責任や使命やあるべき姿がこの僕にもあるのだ。
僕は、そのことに向き合おうとしていなかった。僕のやることなすことは、ヒマラヤ山脈とも、インド洋とも、キジルクム砂漠とも、無関係のこととして生きてきた。きっと多くの人がそうではないだろうか。
しかし、人と自然は、切っても切れない関係なのだ。自身について自覚のないことは危険だ。いつからか、人のためは自然のためじゃなくなり、自然のためは人のためではなくなった。僕らはこのズレを、修正しなければならないのではないだろうか。
利益をひたすらに追求し、短いサイクルで消費することを良しとした社会で生きてきた僕らにとって、それは難しいことかもしれない。
けれどそれは、地球の自然を共有する者として、本来当然のようにこなすべきことで、つまり、至極シンプルなものなんじゃないだろうか。


広く美しい高原を踏む僕の足元には、誰かの捨てたペットボトルが転がっていた。

2013年5月11日土曜日

ヤラレタ

ゴミ一つ落ちていない綺麗な街並み。遠くにそびえる雪を纏った山脈。日光は枝の間を抜けて木漏れ日となり歩道を包む。

そんなのどかな街中で…
僕は顔を真っ青にして、忙しなくバッグの中を漁っていた。
「嘘だと言ってくれ…」
ひと掻きすれば全て見えてしまう小さなバッグの中を、何度も、何度も、取り憑かれたように掻き回していた———。



その日、僕はもうビシュケクの街にも大分慣れて、イシク•クル湖への旅程も決まり、ウキウキしながら銀行を探していた。
なぜ銀行を探していたかというと、米ドルが切れかかっていたからである。キルギスでも、ツアーなどでは特に、米ドルが使えるし、もっと先のことを考えても、米ドルは持っていた方がいい。イシク•クル湖周辺の村はまだまだ未発達であると聞き、ATMや両替所が十分に無いかもしれない。向こうでトレッキングツアーなどに参加するかもしれないし、降ろせるうちに早めに降ろしておいた方がいい。用意周到である。


キルギスソムも少し降ろしておいた方がいいだろうか。今いくらあるか財布の中を確認する。
ビシュケクでは、国境でカザフスタンのテンゲを両替した分で生活出来ていたため、
ビシュケク初日でATMから降ろした5,000ソム(10,000円相当)にはまだ手をつけていない。これは普段バッグの中に眠っていて使っていない財布の中に入れていた。イシク•クル湖観光はこの財布をメインに使ってやりくりするつもりだった。

1,000ソム札と、500ソム札と、200ソム札がそれぞれ何枚ずつあるのかも確認しておこう。我ながら全く抜けめない。



1、2、3、4……………………
…………………………………
…………………………………
…………………………あれ?

いやいやいやいやいやw

1、2、3、4……………………
…………………………………
…………………………………
…………………………あれ?

2,200ソムしかない。
そんなはずはないだろう。
よし、一度記憶を辿ろう。冷静になって。深呼吸だ。キルギスタン着いた日から、今日まで。何に、いくら、使ったか。
案外なんか使っちゃったんだっけかなー?
ああでこうでと思い出す。

うむ…………
やっぱりこの5,000ソムには手を付けてないぞ!!!

そうとわかればもう一度数えればしっかり5,000ソムあるはずである。だって手付けてないんだもんあたり前だろ。

1、2、3、4……………………
…………………………………
…………………………………
…………………………あれ?

やっぱりいくら数えても2,200ソムしかない!!!!
なんで!!!!どゆこと!?!?!?

・・・・まさか!!!!


ー以下 回想ー

あれはそうまさにキルギスタンに着いた日。この5,000ソムを降ろしてわずか30分も経っていない頃、僕は何をしていたかというと、職務質問を受けていた。

決して、奇声や奇行をしていたわけではない。ただ大きなバッグを後ろに背負い、小さなバッグを前に抱え、金髪であっただけである。

まだ宿も決まっておらず、朝早い時間であったため店も開いておらず、行くあてもなくふらふらしていたら、おっさん2人に握手を求められた。めんどくさいけど応じると、「警察だ」と言って手帳を突きつけてきた。

しかし僕は動じなかった。中央アジアの国で、外国人が職務質問されるというのはよくあると聞いていた。手荷物を検査させろと言うので、素直に従う。
変に怪しまれて、長引くのも面倒だったので、気さくの良いふりをして、要求されたものは堂々と、財布でも何でも差し出した。

ー回想 終了ー


そう、犯人はあの警官2人だ…!!
やけに何回も何回も財布の中をゴソゴソチェックしてた…
一回チェックし終わっても、「これは財布か?」とか言って再チェックには手抜かりがなかった。
「財布だっつってんだろ!」と思ってイライラしていた僕。油断していた…。


Ω<いやいや警官が犯人って被害妄想も良い所だろ。

違うんです!
警官が観光客から金銭を奪い取るというのはこれまた中央アジアではよくあること。特にキルギスタンの警察は腐敗していて、ギャングといっても過言ではないのだ。

Ω<それ知ってたんならもっと気をつけられたんじゃないの?

そうだけども!
いやなんかイメージしていた警官泥棒は、警官という身分を良いように使ってもっと無理くり「金出せ!出さなきゃ逮捕!」みたいに来るのかと思っていて…
まさかあんなお手柔らかな職務質問で近づいてきて、しかも全額でない金額抜き取るなんていう狡猾な知能犯のような手口で来るなんて…。

といってももちろん信用していたわけではなかったから、常にやつらの手元を見張っていたつもりだったし、警官が去ったあとも財布の中確認したんだよ!

けれど2人のうち片方話しかけてきたり、イライラしてたりで、気が散っていた瞬間があったのかも…。
財布の中の確認も全額数えるまではしなかった…。ソム札が入っていることに安心してしまった…。



あーくそっ!なんだよ!
やつらとの別れ際爽やかに笑顔で「パカ(じゃあね)」とか言ってしまったよ!
僕が悪いのか?!いや僕が悪いなんてあんまりじゃなか!?
あいつらが悪いに決まってるだろ!
いやでもやっぱり自分でしっかり確認してれば防げた損害なのでは…
しかし問い詰めた所であの2人が素直に白状したとは思えない…



ー以下 妄想ー

∑(゚Д゚)「2,200ソムしかない!おーいちょっとあんたら!」

(´・_・`)´・_・`)「なんだなんだ?もうお前に用はないぞ」

(´・Д・)「いやいや財布から金減ってるんですよ。さっき降ろしたばっかだしまだ一銭も使ってないからあんたらしかいないんよ。金返して」

(`ω´ )`ω´ )「なんだお前は!警官を盗っ人呼ばわりとか舐めてるのか!署まで来てもらおうか!」

ガチャ

Σ(゚д゚lll)「な?!」

ピーポーピーポー

署にて

(`ω´ )`ω´ )「まだ俺たちを盗っ人呼ばわりする気か!証拠でもあんのか!」

(♯`0´)「だって現にお金が財布から無くなってるんですよ!」

(`ω´ )`ω´ )「まだ言うか!罰金としてお前の所持金全額没収だ!」

Σ( ̄Д ̄ノ)ノ「ヒエーッ」

(`ω´ )`ω´ )「カメラも没収だ!」

Σ( ̄Д ̄ノ)ノ「ヒエーッ」

(`ω´ )`ω´ )「iPhoneも没収だ!」

Σ( ̄Д ̄ノ)ノ「ヒエーッ」

そして強制帰国へ…


ー妄想 終了ー



こうなっていたに違いない!
こうなることと引き換えに2,800ソム失ったんだ。2,800ソムを代償にして、僕は未踏の旅路を固守したんだ。


それならむしろ軽い方じゃないか!
なんて軽い被害!むしろ以後気をつけようという注意深さがより洗練されたことを考えると、±プラスなんじゃないか?
誰も悪くなんてない!いやもともと悪いことなんて起きてなかったのだ!
軽いどころか無害だ無害!
下手すりゃ有益な出来事だったと言っても妥当だ!


「あーなんて僕はラッキーなやつだー。」
顔面蒼白、鬼の形相でガサゴソとバッグと体を弄っていた僕は、自己防衛の思考が導き出した牽強付会な結論に、今度はニヤニヤしていた。
きっとその姿は気味悪く、職務質問されるなら、この時だったと思う。




2013年5月2日木曜日

温外知内

僕はインドに何の未練もなかった。
行き尽くしたなんて思っていない。インドのほんの一欠片も知っちゃいないことだってわかってる。

けれど、日もまたいだ真夜中、国民的英雄の名前が付けられたデリーの空港で、僕の胸に湧くものは、まだ見ぬ新たな土地への期待と好奇以外はなかった。


ウズベキスタン。中央アジアに位置するイスラム国家。サッカー好きな僕には、耳馴染みある国名。
首都のタシケントに着いたのは、薄明の早朝。初夏のインドから来た僕の服装には不釣合な風が吹いていた。

ここでは、ゴミ一つ落ちていない道を、セーターを着込んだ人が歩き、無駄に車幅の広い道路には、風に鳴く緑の並木。
つい数時間前までは、牛も犬も人間も一緒になって闊歩して、進めないほど混み合った道。それらが撒き散らす糞尿とゴミを、ヒビ割れた踵で踏みながら、銭をせがむ乞食。
気温も情景も温度差がありすぎて、次々と突きつけられる現実は、まるで雲のように掴みづらかった。


シルクロードを辿るように、ウズベキスタンの古都を巡った。
それらを結ぶ道は、低木が転がるように生える砂漠の中を、直向きに伸びる。空には魚のように雲が泳ぎ、そいつが時折太陽を食べては、ひとときの涼味を僕らに与えた。


それぞれの古都には、古のイスラーム建築物が、威厳と彩りを街にもたらしている。

特に、マドラサという宗教学校を指す建築物に付随するアーチに青いタイルで施された模様の美しさと抜かりなさには、度々息を飲んだ。
サマルカンドとブハラにあるマドラサに、人面のある太陽が描かれているものがある。至る所に神々の姿がみられるインドとは異なって、イスラム教では偶像崇拝は禁じられている。その教義に反したこの模様は、当時の支配者が、己の権力を誇示するためにつくらせたものらしい。驕り高ぶったその先で、人は勘違いを繰り返し、時に信ずるものを裏切ったりして、いずれ散っていく。この絵にみたそんな人の脆さは、滑稽ですらあった。

しかし、西の都ヒヴァの町を囲む城壁に登って、街に沈んでいく夕日を眺めていたときに、ふとその調子付いた支配者と自分が重なったのをみた。
澄んだ空気に輪郭を崩さず落ちていく太陽が放つ、夜の前の僅かな光のあがきの中で、街は静かだった。この生気のない街並みと肌寒さは、インドの喧騒に揉まれて忘れていた寂しさを、僕に思い出させてくれた。
インドは、あたたかかったのだ。寂しさを感じなかったのは、あの溢れる生命力の、ぬくもりに包まれていたおかげなのに、それを「僕は強い人間である」などと勘違いしては、人を信じることや、支えてくれている人の存在を疎かにし過ぎていた。
橙に染まったヒヴァの街は、僕が太陽に顔を描く前に、僕の弱さを知らしめてくれた。

遠くや近くにいる誰かの支えの中で、時にそれにしがみつきながら、僕はようやく生きている。日本にいたときからずっと、僕は自惚れていたのかもしれない。

城壁から見渡すヒヴァの街は、昼間歩いてみて感じていたものより、ずっと小さかった。
外側に出てみて初めて見えるものは、内側のことだったりするのだ。






2013年4月24日水曜日

僕のプシュカル湖

アジメールからプシュカルまでは、距離にして10kmほどだが、一つ山を越える。うねる道を、バスは大きな遠心力を帯びながら進んだ。

プシュカルは、プシュカル湖を中核に広がる小さな街だ。湖といっても、15分も歩けば一周できてしまうような、池とも呼べる小さなものだ。それでもこの湖は、ヒンドゥー教徒にとって神聖な場所であり、多くのインド人が礼拝をしに足を運び、その姿を見んと観光客が群がる。

しかし僕がここへ訪れたのは、ある本の影響である。その本は、40年ほど前にインドを放浪した男性が綴った旅行記のようなもので、僕が日本を発った日に、成田空港で友人からもらったものだ。辞書のように分厚い本であったため、読み終わった電車の中の、天井から吊り下がった、埃を纏った扇風機の上に置いて来てしまったが、僕はそこから多くのヒントを得た。その中で、このプシュカルという場所が、やたらめっぽう出てくるのである。そこからなんとなく、彼のプシュカルへの好意が伝わり、僕はその理由が気になったのだ。

本から僕が抱いていたプシュカルのイメージは、大きく覆された。四方を不毛な砂漠に囲まれていたというプシュカルの街は、今では活気に満ちていた。湖に沿って円を描く道には、外国語で書かれた看板や、雑貨やインドの衣装を扱うお店、安宿で溢れている。筆者は外国人である自分は好奇の目でみられたと記すが、僕は湖に浮かべるピンクの花を押し付けがましく売りつけられたり、気安く「ジャパニー、ジャパニー」と声をかけられたりした。

「随分変わったな。」

初めてきた土地であるプシュカルで、奇妙にも僕はまずそんなことを思った。



湖を半周すると、僕が身を置いている宿の背後に、小さな山があって、その頂上に、小さくお寺が佇んでいるのに気づいた。
ただ単に、この街を上から眺めたかったのか、この忙しない人の流れから逃れたかったのか、なにかもっと違う衝動が僕を動かしたような気もする。太陽が真上から少し傾いた、一番暑いときではあったけれど、僕はあの山に登ることにした。

頂上では、寺を管理する男が、快く迎えてくれた。小さな山といっても、照りつける太陽の下、無防備に山道を登った体は疲弊して、彼と寺の中の小部屋に腰をおろした。部屋の中は気持ち良い風が吹き抜け、汗がゆっくりと乾いてゆくのが、とても心地良かった。
僕がこの街にきて最初に抱いた奇妙な感想を裏付けようと、彼に40年前のこの街の姿を改めて尋ねた。
砂漠の乾燥から身を守るように、僅かな水気を求めて牛の鼻頭に集まるハエのように、湖の周りにへばりついた、ここに住む人の家と寺以外は、何にもなかったという。

外に出て、町を眺めてみた。
大きく広がったプシュカルの町の今の姿が、よく見て取れた。
その中核にあるのは、今日も相も変わらず水面に空を写す、湖。小さな点と化した人間が、水浴びをしているのが見えた。

なるほど、良い所だな、プシュカルは。
時代に流されて、変わっていった町を、支え続けているのは、何十年も、何百年も、変わらぬ空を写し続ける、未だ変わらぬ湖。この湖がある限り、この町がどんなに変わっていこうと、壊れてしまうことはないだろう。

人は、必死で変えようとしたり、変化を受け入れられず嘆いたり、変わらないことに苛立ったりして、そうやって日々変わっていく。過去の僕と今の僕は違う。今の僕と明日の僕も違うだろう。
そうやって流れていく僕らを、支えているものは、変わらないものなのではないだろうか。プシュカルの人における、プシュカル湖がそうであるように。
頑なに、変わらぬように守っているもの。
日々の変化に、そんな無変化があって、僕はつくられ、僕は動いていく。プシュカルの人と湖が、町をつくるように。

じゃあ、僕にとって、変わらぬものってなんだろう。変えたくないものってなんだろう。僕のプシュカル湖は、その水面に、一体何を写しているんだろう。

こんな旅をしていて、それに気づけるだろうか。一生のうちで、それに気づけるだろうか。


少し強い風が吹いた。


僕はまだ旅を続けたいと思った。
旅はまだまだ続くと思った。

2013年4月10日水曜日

潔白

ブージの街から北に向かって少し車を走らせると、荒漠たる原野が広がり、不釣合いに整然とした道路は、真っ直ぐに伸びて、陽炎は、地平線でその道を溶かし、天と地の境は曖昧に白くぼやけていた。

"White Desert"。インドの西の端、パキスタンとの国境付近に、真っ白く広がる塩の大地があると聞いたとき、僕は予定していた旅のルートを修正した。もともと行き当たりばったりで立てていたプランだったから、躊躇いはなかった。「いま一番行きたいと思った場所へ行く」ことが旅であり、そしてそれができるのが自由なのだ。そしてその二つが今の僕だ。

White Desertまであと30kmばかりという所で、entry feeを払う。そこをすぎると生命の気配は消え去り、静かで、険しい星だった。自然現象の何もかもが、その凶暴さを遺憾無く発揮し、地表を荒らしていた。

進むにつれて、段々大地に塩の痕が、不規則な模様となって現れた。まるで地球が汗をかいているようだ。
車は駐車場らしき空き地に止まり、ここから先は歩くように言われた。
少し歩けば、大きな、宝石にも似た塩の結晶がゴロゴロ落ちていた。しかし泥も混じっていて、White Desertという感じではなかった。
訪れる時期を誤ったのだろうか。
一抹の不安を抱えながらも、さらに歩みを進めると、見えてきたのだ。真っ白な大地が。



そしてその域に足を踏み入れたとき、その白は僕の頭までも侵し、僕は本当に無能だった。何も僕から表現できずに、ひたすら地球ばかりに見せつけられた。

白い大地と、青い空。ここを描写するにはそれだけで十分だった。こんなにもシンプルで、明快なものを、今までの人生で見たことがなかった。
僕がどんなに足掻こうと、叫ぼうと、世界は嘲笑うかのように、僕を捕らえた。

地上に吹く風が、完全に吹いていた。唯一僕だけがそれを遮る場所をつくっていた。太陽が狂ったように照り、塩は輝きを帯びてそれを跳ね返し、僕の眉間を痛みつけた。そこから逃れる術もまた、僕自身が地面に与えている影のみだった。

灼熱に絞り出された僕の汗は、瞬く間に風に奪われ、無限の塩の中へ消化されていく。White Desertは僕を食べ、僕はそれに無抵抗だった。



僕は蟻のように小さく、塵のように無力だったけれど、こわくはなかった。
僕は、まるで産まれたばかりの赤ん坊の如く、きれいだったと思う。

2013年4月5日金曜日

アジャンターと仏と僕

僕が南インドを抜け出して西インドのアウランガバードに立ち寄った理由は、アジャンター石窟という遺跡群を見ておきたかったからだ。そのくせ、僕はこの遺跡に関する知識を、何一つ持ち合わせていなかったのは、相変わらずのことだ。
しかしこの遺跡はインドで何としても目に入れなければならぬ、いわば課せられた使命とも言うべきもので、それはどうしてかと言うと、ここは貴重な親族からのお墨付きであったからである。

といっても、一番近い大きな街アウランガバードからバスで片道3時間という孤高なこの遺跡は、近くに安い宿がないくせに日帰りするためには早朝のバスに乗らなければならず、僕の面倒くさがり気質に起因する「行かなくていいのではないか」という思いと幾度か葛藤した。

3月の最終日朝5時40分。僕はしっかりとアジャンター行のバスに乗り込んでいた。
3時間の道程は、襲いくる猛烈な眠気に丸腰でやられてしまおうと思ったのだけれど、荒い運転と粗悪な道路が心外にも僕を守ってくれて、一睡もすることができなかった。

仕方がないからチェンナイの宿に置いてあった日本語インドガイドブックのアジャンターのページを撮った写真を見た。この時初めて、僕はこの石窟が壁画で有名であるということを知った。
てっきりエローラやハンピのように岩をえぐったヒンドゥーの寺院が並んでいるとばっかり思っていて、そして正直その種の遺跡にはもう見飽きていたため、「壁画」という響きにアジャンターへの期待は高まった。

バスを降り、チケットを買い、急な坂を登ると、景色が開け、逆U字型の崖をえぐっていくつも寺院が作られているのがわかる。正直この光景は迫力に欠けていて、崖にぽつぽつと穴が空いているだけだ。

しかし一度その寺院の中に入れば、
僕に期待を与えた壁画は、さらにその期待をはるか上回ってみせた。


色味に富んだ鮮やかな絵が壁、柱、天井の隅々に至るまで描かれていて、その美しさ、壮大さ、そして寺院の外見からは想像も出来ない迫力たるや、時間が過ぎるのも忘れて見入ってしまうほどだ。


そしてもう一つ、この石窟で僕を虜にしたのが、仏像だった。このアジャンター石窟は、遺跡の全て(僕が見た限り)仏教寺院で、必ず一番奥に菩薩が彫られていた。

この、ヒンドゥーの神に埋もれたインドの仏を見たとき、またも僕は宗教というもの、とりわけ、自分の信仰心について、思う所があった。

僕はきっと、仏を見る度にいつも、よく考えれば原因不明の、オーラや威厳を感じていて、ここアジャンターの菩薩を目にした時にも、例外なくなにやら漠然とスピリチュアルな力がありそうな気がしてしまったのである。
しかし、今まで散々見てきたシバやガネーシャなどのヒンドゥーの神々には、そんな凄みを感じなかったことに気づいた。いや、気づいていたのだけれど、無宗教であるはずの僕にしてみれば、そんなことは当たり前だと思っていた。
でも僕は、仏様を前に、何か目に見えないものに少し圧されて、萎縮している。
きっと僕がシバやキリストをみてそうであったように、この仏をみてもなにも感じない人はいる。その人と、"無宗教"であるはずの僕は、大きく異なる。

誤解を恐れずに言えば、このアジャンターの菩薩を前にして、僕は仏教徒なのだなと思った。日本は仏教が根強い国だなと思った。

2回続いて神様に関するブログを書いているけれど、怪しい宣教師にあって洗脳されたりしているわけではありません。
この菩薩は僕の今までの考え方や生き方を、なんにも変えていないのだけれど、新たな自分を気づかせたかもしれない。
経典も、輪廻も、極楽も、どうだっていい。ただ、僕は「仏様」の存在は、どこかで認めていた。これは、信仰心なのかもしれないなぁ。

手の指が欠けた仏様は、微動だにせず静かに目を閉じていた。

2013年4月2日火曜日

神様との出会い

地球にある異星。この世界にある異世界。

ハンピに降り立った時、僕はそんなことを思った。

巨岩が群れをなして不均衡に均衡を保ちながらつくる山と、その狭間に広がる緑鮮やかな大地。こんな光景が地球にあったのかと、誰もが自然の創造力に跪くであろう。
しかしその中に点在する無数の遺跡たちは、その自然と絶妙に協調しながら、確かにここが地球人の住む地球であることを物語っていた。

その風景だけで計り知れない価値のあるものだが、それをつくる遺跡の一つ一つも、大きさ、状態、芸術性に優れる、圧巻なものばかりだ。

しかし、僕のことをこれまでにない摩訶不思議な境地に誘ったのは、そこに彫られたり、描かれたりして、永く人々に祀られる神々の姿であった。

ほぼ無傷の状態で残る大きなラクシュミ像。宿やレストランの名前として街中でもよくみられるこの神の姿は奇怪で、般若のような表情、大きな口には牙を生やし、飛び出した目、背中からは7頭の大蛇が伸びている。

モンキーテンプルと呼ばれる寺には、猿のような姿をした神が描かれている。毛深い体、浅く白髭を顎にたくわえ、鼻の下は猿のそれのように膨れている。

これらの神の姿は、僕の想像力じゃとても追いつけないほど独創的で、その細部一つ一つに、疑問を抱くほどだ。

何故、こんな姿にしたのだろう?

僕が「なぜ?」と思った時は頑固で、その納得いく理由みつかるまで、例え結局それが独りよがりの屁理屈に終わったとしても、考え抜くことをやめない。

しかし、この時ばかりは、この奇々怪々な神々の姿のワケを説明できるアイデアが、一向に僕に浮かんでこなかったのである。

そしてとうとう言い訳を考えることを降参した僕は、まさに人は神の前に無力であることを、新たな実感とともに思い知らされたのである。

この時ぼくは、
「ああ、神はきっといるのだな。」
と思ったのである。

なぜこんな姿をしているのか説明が出来ないのは、それはつまり、神というものは人間が作ったのではなく、人間が“考える”という手段を身につけるずっと以前から、存在していたからなんだろうな。
今まで神の存在など信じたことのなかった僕は、無邪気にそう思った。

もちろん僕は今まで通り、ヒンドゥー教徒
でもなんでもない。
けれど、何処かの惑星のようなこの場所で、地球の神の存在を、強固に感じさせられたのであった。

裏アジア予選

Fort Cochin。ケララ州にあるこの街は、その昔ポルトガルによる支配の下、貿易の中心地として栄えた港町だ。今ではその面影残しながらも、多国籍チェーン店や洒落たレストランが街を飾る。一方で、海では盛んに漁が行われ、少し足を伸ばせば緑豊かな自然の姿も見ることができ、これほどまでに多方面で豊かな土地は、広きインドといえど数少ないだろう。

しかし、魅力あふれるこの街で、何よりも僕を魅了したのは、ここでしか見られない漁法チャイニーズフィッシングネットでもなく、赤く熟れたマンゴーでもなく、アートギャラリーを兼ねたカフェでも、様々なアクセサリーの敷き詰められた雑貨屋でもなかった。

それは、サッカーボールを追いかける少年たちであった。
下手くそな見切りブレーキが体を壁に打ちつけるバスの中からその姿を見つけたとき、この旅では新しく、でもどこか懐かしい興奮を覚えた。

その興奮冷めやらぬまま、あの悪しき記憶ヒマラヤ山脈のトレッキング以来封印していた厚手のソックスをサッカーシューズ代わりに取り出し、足早にグラウンドへ向かった。
疼いてる僕にとって、宿からグラウンドまでの道程は果てしなく、まだ少年たちはいるか時計を見ながらソワソワして、グラウンドが見えるとついに僕は走り出したのであった。

彼らはまだいた。予想通り、裸足で、予想以上に、石の転がる土の上を、元気いっぱいに駆けていた。
クロックスを脱ぎ捨て、ソックスを履いて、混ざる。快く受け入れてくれた。

ビーチサンダルで枠を作ったゴール二つ。たて、20Mちょっと、横、無限大。

チームは一番年上の少年に勝手に振り分けられる。

チームメイト、メッシのユニフォームを着たサッカーど素人、およそ8、9歳の少年と、キーパーしかやりたがらないこちらもサッカー未経験、10歳くらいの少年。
相手チーム、サッカー経験ありの中学生二人と、キーパーを務める勇敢な少年。
名目3人対3人、実質3人対僕。
これがアウェーの洗礼インドの笛。
上等だ。思い切りやるしかない。無論勝つ。

少しばかり期待していた僕が馬鹿馬鹿しく思えるくらい、チームメイトのメッシは役立たずだった。
メッシは守備も攻撃もせずに、ボールを渡せばダイレクトで僕に返す、つまり、試合に参加してるとは到底言い難いプレースタイルだった。
しまいには、「空手は好きか?」など聞いてきては、空手の型を真似してみせた。

そんなこと御構い無しに、相手の中学生たちは自慢気にパスを回し、フルパワーでシュートを放ってくる。

だが所詮14歳とそこらの少年に、10年サッカーの教育を受けてきた私が、負けるわけにはいかないと、そのプライドと、いまだ体が覚える技術を頼りに、食らいついた。

一進一退の攻防が続き、7-7となった時点で、疲れがみえ始めたのに終わりが全くみえなかった僕は、10点マッチを切り出す。
あと3点。本気で勝つ。

9点まで連続で奪取し、9-7と優勢になったが、そこからの奴らの一丸となったディフェンスたるや、カテナチオもびっくりの、セレソンもきっと破れない屈強さで、僕のドリブルとシュートはことごとく封じられ、一方僕のチームといえば、メッシは空手の蹴りでゴールポストを示すビーチサンダルを吹っ飛ばしてしまったりしてるわけで、つまり、そこから3点取られ、9-10の敗北に帰したのであった。

久々に本当に悔しかったが、この一試合に賭けていたから、これ以上戦うことには気が進まず、彼らのもう一試合のオファーを断り、木陰で体を休めながら、惜敗の涙をのんだ。

僕が抜けたことで、光栄にも少しばかり面白みを無くした彼らは、だらだらとボールを蹴っていた。

2013年3月27日水曜日

カニャクマリの太陽

インドを囲む3つの海、アラビア海、ベンガル湾、インド洋が交わり、この広大な国インドで唯一、海から日が昇り、海へと日が沈む場所。

このことを知ったと同時に、僕はカニャクマリへの行き方を調べていた。そこはインド最南端の町。南に突き出したコモリン岬には、その聖なる海に身を清めようと、沐浴場がつくられた。

多くのヒンドゥー教徒たちが、そこを神聖な地と崇め、混沌とした海と、それを様々な色に染めながら、現れては消えてゆく太陽を拝めようと、人々は鋭利に尖ったインド大陸の先端を目指す。

カニャクマリは、いままでの町と違い、インド人向けの雰囲気だった。インド人にとっての生活品や嗜好品を、インド人に向けて売る店が多い。もちろん観光客目当ての客引きもいるが、量、しつこさともに他に劣る。この町で見るものといえば、海と太陽。そう言ってしまえばそれまでで、わりと何処でだって見れるものに、価値を見出す観光客は、あまりいないらしい。

町に着くや否や、海の方へ歩いた。とりあえずその聖なる海とやらを、この目で見てやろうじゃないか。町は小さく、海まではあっという間に行けた。

老若男女問わず、磯辺に造られた、小さく、でもどこか誇らしげに佇む、神殿のような沐浴場で、それは沐浴なのか海水浴なのか、とにかく楽しそうに海に体を委ねていた。足を撫でるほのぬるい海水が、はしゃぎ声に躍っていた僕の心を助長して、僕も海に入った。結局これは、何湾で、何海で、何洋なんだろうとか思いながら、すべての筋肉を一切波のやるように任せ、海月のように漂っていた。



町がほんのり橙を纏い始めたのは、18時ころだったと思う。南インドは、本当に日が長い。宿で昼寝をしたり、バナナを食べたり、露店を冷やかしたりして暇を潰していた僕は、再び岬へと足を運んだ。
そこには、およそ、この小さな町に訪れた人、住んでいる人、その全てが、水平線の向こうへ沈んでいく夕陽を見んと、同一の方向を、独りで、家族で、友人と、恋人と、様々な境遇で、でもそれは全く同一のものを、きっと全く違った捉え方で、見ていた。こんなにも人は太陽を見たいものなのかと不思議に、少しばかり馬鹿馬鹿しく思ったりもしたが、一度彼らと同じ方向に目を向ければ、その理由を示すには雄弁すぎるほど、真っ赤に膨れた夕陽が、所々雲に身を切られながら、空を染め、海を染め、岩を染め、浜を染め、僕らを染めた。それはその赤みと大きさをさらに増しながら、昼間よりもずっと速く進んだ。雲に隠れてしまい、水平線の向こうへ行ってしまってからも、空と雲にはその色が染み付いていた。
沈んだ陽は、同時に朝陽となりどこかへ昇り、そうやって朝と夜を作りながら、再び反対の海の方から、戻ってくるのだ。




なら、迎えに行ってやろう。



今度は翌早朝、朝陽となってやって来るという太陽を見んと、岬へ行った。
御来光というものを拝めたのは、これが初めてかもしれない。

岬には昨夕に劣らぬ人々が、今度は揃って東の海を見ていた。

その姿見せずに段々と紅色に雲を染めていく朝陽は、そのままその心開くことなく白き太陽となってから、僕らを日陰へと追いやるつもりなのかと思った頃、それは雲の優しさか、朝陽の僅かばかりの社交性か、一瞬、だがしっかりとその全貌を、僕らに晒したのだ。

朝陽は、美しく、力強く、希望に満ちていた。
この旅を始めた後、始める前、つまり、僕の人生において、僕がみたもの、そのどれよりも澄み切っていて、今その朝陽を取り巻く世界の状況そのどれも無関係に、ただ朝陽が美しかった。
そして、力強かった。何億回、何兆回も繰り返しても、尚且つその勢い衰えることなく昇り来る太陽の力強さを前に、僕はただただ無力で、打ち砕かれた。
そして、僕は洗い流された。その光は、僕の過去のすべての罪とか、悲しみとか、恥辱とか、一切を消し去り、僕の前途を照らした。それはまさに、希望の光だった。


コモリン岬でみた、この毎日どこかで起きている、そして起きてきて、尚も起きていくだろう、太陽が為す神秘に、自然の美しさ、歴史の重み、非力な僕らが考え抜いた全てのことの意味、そのどれもが詰め込まれ、表されているような気がした。










2013年3月26日火曜日

りょうすけ

なんとか生きて南インドにたどり着いた僕は、カトマンズの日本料理屋で出会った韓国人に教えてもらったPuducherryという所を目指した。僕がブログで『旅プレイリスト』を更新した場所だ。そこでも少し触れたように、そこは元仏領。色とりどりの洋風建築の家々が、街を彩る。

チェンナイからPuducherryまでは、直接行けばバスで4時間ほど。僕はその間にあるマハーバリプラムという、大きな遺跡のある小さな町に一泊したが、そこのことは割愛する。

プドゥチェリーについて知っていることは、またの名をポンディシェリーということぐらいで、見所も、地理も、本当に何も把握していなかった。

到着したバス停で、上品そうで、少しばかり裕福そうな男性に、安宿は知らないか尋ねたところ、「あっちの方にOcean Guest Houseという宿があるが、そこがいいらしい。」と言ってきた。自分の足で宿を探し回りたかった僕は、「あっちの方」ということだけ頭に入れて、礼を言って別れた。

「あっちの方」に行くと、確かにGuest Houseという看板がちらちらと現れた。しかしどこも、僕のこの餞別にもらったスペインの神様が刺繍された、皮の古びた小銭入れに入った、その小銭入れの雰囲気を崩さない貧相な額のルピーたちが賄えるような宿代ではなかった。

肩に食い込む13kgある55lのリュックによる乳酸が、南インドの灼熱の太陽を餌にして、僕の筋肉と焼けた肌を痛みつけてきたので、もう高めの宿に荷物を置いて代わりにこの小銭入れを痛みつけてしまおうかと思い始めた頃、目に飛び込んできたのは、『Ocean Guest House』の看板だった。

バス停の男が教えてくれた宿。見た目が小綺麗なことに少しがっかりし、駄目元でフロントに入ってみると、カウンターにはバス停のその男がいた。「やっと来やがったな!」と言ってるような含み笑いを浮かべる。そういうことだったのかこのちゃっかり野郎。ただ、この男は心の優しさがにじみ出てるような表情、口調、仕草で、僕に嫌悪感はなかった。そして、喜ぶべきことに、部屋が安かったのだ。刺繍の神の笑い声が聞こえたような気がしたのは、疲れているからで、すぐさまこの宿に決めた。

部屋に行く途中の階段に、日本人が座っていた。出会いというものは本当に不思議で、突然訪れるものではあるが、そのタイミングや人の種類は、自分の念によって確かに左右されているのではないかと思わせる。僕はこの地のことを誰かに聞きたかったし、日本語が恋しくなっていたのだ。

会社を辞めて、世界を旅する彼の名前は、りょうすけさん。同じ名前だ。話しているうちに、他にもいろいろな共通点がみつかった。同じバイト先、同じ境遇、インドを回るルートもほとんど一緒だった。栃木県出身ということで、地元の話でも中々盛り上がれた。共通点が多いから話しやすいのか、話しやすいからこうも共通点で話が弾むのか、とにかく、こんなに楽しく、時に真面目に語り合ったのは、旅に出て初めてのことだった。
シバ神の誕生日か何からしく、インドは祝日で、店はほとんど閉まり、街は眠っているように静かだったけど、そんなことはどうってことなく、充実した時間が過ごせた。

「必ずまた日本で会いましょう。」

別れたあとに強く感じた、自分が「独り」であるという感覚は、それが良い出会いであったということを示していた。


※僕がりょうすけさんと過ごした時間をもう少し詳しく知りたい人は、りょうすけさんのブログをご覧ください。
http://ryosukeoka.wordpress.com/2013/03/13/そ、そんなつもりは無かったでんす。本当です。/


2013年3月23日土曜日

38時間の車窓から

居心地の良いバラナシの、燃え盛る火葬場真裏のゲストハウスの、鼠と蜥蜴が這いずり回る小部屋をあとに僕が目指したのは、南インド最大の都市、チェンナイ。

「暑くなる一方のこの時期は、旅行者はこぞって北へ行く。」

宿主の言葉が、僕の天邪鬼精神が握る舵を南に向かせた。

チェンナイまでは、バラナシの隣駅ムガルサライから、電車で38時間。
3月7日の23時半にムガルサライを出て、3月9日の13時半にチェンナイに着く予定だ。


しかしこれが想像を絶してつまらなく、尚且つ過酷だったのだ。


寝れると聞いて買った一番安いチケットが示す席には、老婆が寝転んでいて、そいつをどかしても、十分に横になれる広さはそこにはなかった。このチケットは、僕に隣の席のインド人と代わる代わる睡眠をとることを強制したのである。


そして24時間首尾一貫して列車に乗ることを全うした3月8日は、記憶にないほどに、直向きにぼーっとしていた。
窓の外を眺めるのも、本を読むのも、音楽を聞くのも、すべて、「ぼーっとする」という行為の延長線上にあって、よって、僕がこの日吸収したものは、これっぽっちも無かった。

こんなにもぼーっとすることが板についてしまうのは、体調が悪いせいではないかと思い始めたのは夕方頃で、前日バラナシ最後の朝食で食べた絶妙な半熟目玉焼きが犯人と思われる腹痛に襲われ、それに便乗するように、昨夜席を譲り合いながら寝たストレスが、微熱や眩暈や吐き気といった、あらゆる形の不具合となって僕を攻め出したのである。

今夜は夜通し横に寝かせてくれという気持ちを、口では言わぬが、表現できるそれ以外の体の部分全てを使って露わにし、半ば強引に足を伸ばしていたら、僕の気の毒さと図々しさが、インド人の優しさを引き摺り出すことに成功し、上のベッドを譲ってもらえた。

しかし僕の本当に情けないところはこの後で、真夜中に目を覚まし、床で寝ている人を踏まぬようにふらふらとトイレに行って、10分ほど下痢を垂れ流し、口に指を突っ込み盛大に吐き散らしたのであった。


こうしてこの1日半にも及ぶ列車の旅は、僕の心を満たすものなに一つ訪れることなく、それどころか、僕の体内にあるエネルギー源と僕の時間感覚を完膚無きまでに吸い取り尽くし、正真正銘空っぽになった僕の体を、きっちり時間通りに、一日中その暑さ止むことのない南インドまで運んだのであった。




2013年3月22日金曜日

僕とバラナシ

僕はバラナシを、歩いた。

頭に地図を描きたくて、歩いた。
混雑とにおいに嫌気がさして、対岸を歩いた。
朝食のパンを求め、歩いた。
犬に吠えられ、ハエに追われ、牛の糞を踏み、片言の日本語を無視し、地面に干されたサリーをよけて、歩いた。

時に死者を弔う行進とすれ違い、時に道を教えてくれた少女と共に童心に帰り、歩いた。


そして、沐浴場に腰を下ろし、ガンガーを眺めた。絡まるように乱立する寺院がつくる日陰に座った。太陽に焦がされた体をガンジス川に浸した。

僕は、ただバラナシに在った。
そして僕は、バラナシに飽きていた。
でもそれが居心地良かった。
僕は、ただバラナシに在った。

それだけ。ただそれだけで、バラナシは、いろんなことが起こるのだ。

聖なる生活を求め、あらゆる物を捨て去り、身に纏う物といえば、腰布と、笛の入ったオンボロの麻の鞄と、誇らしげに伸びた髭だけになった、ババと呼ばれるガンジス川沿いに棲息する人種の男に、バラナシの名の由来を聞いた。

骨を拾い集めては、それを一日中磨いてはたまに色をつけたり、なにやらかを施したりしているロシア人と出会い、対岸で拾った何かの骨で、ネックレスを作ってもらった。
「君がそれにみた価値を、君なりの形で表現してくれればそれでいい。物でも、君の国のコインでも、言葉でも、なんだっていいさ。」
お礼はいくら支払えばいいか尋ねると、彼はそう答えた。

全裸で生活をする者や、サリーに包まれた女性たち、インドの衣装を纏う観光客の中で、お洒落ににTシャツとジーンズを着こなすムスリムの青年と出会い、鼻の中が真黒になるまで、バイクでバラナシを駆け回った。
一日中笑って過ごした友達に、別れ際
See you someday
と言ったら、
When?
と答えた彼の切なげな目に、返事を出来なかったりした。

宿の屋上でヒッピーの奏でるギターの音色と、どこの国の言葉で何て言っているのかわからない歌声に、うたた寝をしたりした。

燃えて骨と灰になっていく亡骸を前に、死という逃れようのない事実を、悲しみも、さみしさも、こわさも伴わずに、ただただ無邪気で、素直に、受け入れた。



きっと、全ての物、人に、歴史があり、ストーリーがある。

けれど、このバラナシに混沌と在る全てのそれらには、強烈な引力があって、それは僕の意識まで支配して、この地に転がる数多のなんらかの機会と関わることは、実は僕の自由の範疇ではなくて、いつの間にか、気づかぬうちに、僕はバラナシの手の中で、転がされていたような気がする。


でもそれが良かった。
僕はバラナシに惚れていた。

2013年3月19日火曜日

インド入国、バラナシ

ルンビニで同じ宿だった日本人のユウヤさんと、インドに入国を予定している日が同じであったため、彼と一緒に、朝早くから国境の町スノウリを目指した。

ルンビニからスノウリまではバスとリキシャを乗り継いで、1時間もしないで着ける。
インドとネパールを物理的に隔てているのは、アーチ状の welcome to India と書かれた建物だけであり、イミグレーションなど介さずとも容易に通れるように思えた。

ただ、つながった空間は、そのアーチを境に、全く表情を変えた。
ネパール側はあまり活気のない小さな町で、砂利道が続く。
インド側はものすごいゴミの量で、臭い。しかし店は多く、道もわりと綺麗に整備されていた。

乗り合いジープに乗り込み、途中チャイ休憩をとり、渋滞にはまり、何頭もの牛を追い越したりして、ゴラクプルという街の駅に着いた。
ここから電車に乗り、僕はバラナシへ、ユウヤさんはコルカタを目指した。

電車のホームには、インド人がごった返していたが、外国人の姿はなく、皆がモンゴロイド顏でありながら金髪の僕を、好奇心に全身全霊を捧げて凝視してくるから、そいつら一人一人を睨み返しながら時間を潰していると、その僕の暇つぶし相手の一人が声をかけてきて、丁寧に電車の乗り降りのアドバイスをくれたのである。

しかし、僕が舐めていたのは、そのインド人の好奇心でもなく、電車の座席のテキトーさでもなく、ゴラクプルからバラナシへの距離だった。
日本という、小さな島国であらゆる感覚を育んできた僕は、インドという広大な国の中での距離感を掴むことに失敗した。
地図で確認すれば、ゴラクプルからバラナシなんて、およそ電車で2時間くらいだろうと思っていたことが、その失敗のつまるところで、インドは巨大だった。

結局、6時間ほど僕は電車に揺られた。
それは、車掌が運転をサボったわけでも、人身事故が起こったわけでもなく、ただそれだけの距離だったということである。

13時に走り出した電車に座った僕は、15時すぎにはバラナシに着くだろうと踏んでいて、優雅に風に吹かれ景色を眺めながら、どんなとこに泊まって何を食べようかなど能天気に考えていたのだが、実際バラナシに降りてみると、辺りは暗かった。

インドについて知っていることといえば、インドに関するブログに書かれたバラナシの大きな交差点の名とガンジス川くらいだったので、いささか僕は不安になった。

とりあえず、その交差点をリキシャに伝え、バラナシを進んだ。

クラクションがもう意味をなさないほど鳴り散らかる道を、渋滞にはまりリキシャを手で押したりしながら、無理矢理進んだ。

そんな中不安が募る一方の僕は、不覚にも、匂い、街並み、言葉、人間、バラナシをつくるどこかに、非インドを求めていた。どこか観光客向けの、浅草の仲見世通りとか、カンボジアのパブストリートとか、そんな場所を探した。

しかしこの欲求を満たすことなく、インド人で溢れる中をリキシャは進んだ。
進んだ。もう随分と進んだ。
まさか、このリキシャのジジイは僕が止まれと言わない限り、僕と旅を共にする気なのではないかと疑い始めたころ、リキシャは止まった。

ただそこには、非インドを求めていた僕が、実は1番求めていた、僕にとってのインドそのものが、無かった。

ガンジス川だ。

それはこの時の僕にとって、インドであり、バラナシであった。

宿よりも、観光地よりも先に、その姿をみたい。インドに来た確信が欲しかった。

もうすっかり夜だったけれど、リキシャのオヤジにガンジス川までの道を聞き、歩いた。

なんでこんなにも川が見たいのだろう。
やはりガンジス川には人を惹きつける何かがあるのか、それともただの僕のエゴであり、自己満足の為なのか。とにかく必死に歩いた。

15分くらいして、ようやく、姿を見せてくれた。
ガンジス川。もう22時を過ぎていた。
川沿いは街灯が灯り明るかったが、川は向こう岸が見えないほど暗かった。
犬やら牛やら、その糞やらが転がり、それに同化するように家なき人も転がり、静かだった。

なんにも実ってはいないのだけれど、大きな達成感を覚えた。



…さて。
川は広くてながい。ゲストハウスは見当たらない。右に行くか左に行くか。
あてもなく、右に行った。
最悪このうんこと一緒に野宿でもいいや。
達成感からか、疲労からか、そんな大胆な無気力さえあった。

少し歩くと、反対側から欧米人が歩いてきたので、安宿を知らないか尋ねた。
すると、彼らの宿の屋上にベッドがあって、そこでもいいなら50ルピーで寝れると言われ、一度野宿も決意した胸に、好奇心とヤケクソという名のチャレンジ精神も加わり、彼らについて行った。

川を右手に10分ほど歩いた。
突然、大きな寺のような建物が表れた。炎が揺れ、モクモクと煙が上がっている。もう深夜近くとなり、全ての店が閉まっていても、そこは異様な活気を保ち、熱と光を帯びていた。

火葬場だった。
誰がそう言ったでも、看板があったわけでもなかったが、そうわかった。

そのすぐ真裏が、彼らのゲストハウスだった。

言われたとおり、屋上に上がると、そこはレストランになっていて、目の下で燃え盛る火葬場とは裏腹に、酔いの回ったオヤジ達が大音量で音楽をかけてはぎこちないステップで踊っていた。
そのすぐ横に、ベッドがおかれていた。

スタッフに、ここで寝かせてくれと頼むと、幸運にも、部屋があるという。
今すぐにでも寝たかった僕は、このオヤジどもの横では僕の睡眠が妨害されることは目に見えていたので、疲弊し切った顔に思わず笑みがこぼれた。

少し待たされ、部屋に案内された。
そこには、大人一人が横になれる、ただそれだけのスペースがあった。
広さで言ったら、部屋と言われるより、便所とか、物置とか言われる方がしっくりきた。
そこに、屋上で干されていた布団が投げやりに敷かれ、部屋は埋まった。
もうそれは独房のようだったが、不思議と居心地はよかった。

扉を閉め部屋に閉じこもると、なぜか目が冴えてきて、眠れなかった。

僕は、小さな小さなその部屋で、大きな大きなインドという土地の距離感を捉えようと、しばらく地図帳を眺めていた。




ブッダの生誕地、ルンビニ

「天上天下唯我独尊」

なんて傲慢なやつだ。
初めてこの言葉を聞いた時、僕は仏陀に対してそんな畏れ多いことを思ってしまった。

インドの国境近くの小さな町、ルンビニ。
この地で釈迦は産まれた。

その、まさに釈迦がここで産まれたという場所は、幾多の人々が祈りを捧げた痕跡が、あらゆる形で残り、祈りは空気にも染み込んでいるようで、重々しく、静寂だった。

うってかわって、そのすぐ横にある、釈迦の産湯に使われたとされる池の周りには、何千何万もの曼荼羅の旗が、幾重にも重なり、ちらちらと鮮やかに風にたなびいていて、それがつくる程よく斑な日陰は、人々に安らぎを与えていた。

何億人もの生活を支え、人生の指針となり、生きる糧となっている、仏教。それを作った人がここで産まれた。そう考えると、やはりどこか感慨深い気もするし、専ら無宗教な僕にしてみれば、この感慨も浅はかなものなのだろうなとも思った。

一緒にみて回ったオランダ人女性が言っていた。

「私は宗教が嫌い。宗教は人を共存させず、引き裂き、争いを生むから。」

納得もするし、矛盾も感じた。
多くの人間が、神を信ずることで救われているのも事実だから。
ただ、真っ直ぐな意見を持っている彼女は、格好良かった。

翌日、同じ宿のベルギー人のカップルと、ウクライナ人の2人組と一緒に、他の所を見て回った。
この聖なる仏教の地の周りには、それにあやかるように、各国が寺を建てた。
タイ、カンボジア、スリランカ、日本、韓国、ドイツ、ブータン etc。
広大な敷地内に、これら各国の独特の仏教観念とデザインが施された寺が混在している。
一緒に回ったヨーロピアン達のお気に入りはドイツの寺。ものすごく派手で、内装がとても綺麗。

僕は…正直すごく感動するものはなかった。
どれも新しく綺麗で、人間との共存の歴史をあまり感じれなかったから。
人によって作られた宗教の拠点となり、人を支えるために建てられる寺には、人間が日々足を運んだ歴史があって、初めて価値があるように感じる。
だから僕は、そこで祈ったり、休んだり、遊んだりして、共存の歴史をつくろうとしている人たちを見ている方が面白かった。



2013年3月16日土曜日

ネパールのジャングル

ヘリコプターから窓とプロペラに邪魔をされたエベレストを眺めながらカトマンズに帰ってきた僕は、もうカトマンズになんの魅力も感じていなくなっていた。意気揚々としていたtop of the worldに見事に手鼻をくじかれた僕にとってここにいる意味はもうなかったし、ここにいたくなかった。

だから、もう僕はバスに乗っていた。

向かったのは、チトワン国立公園。
ネパールはヒマラヤ山脈に従ってどこも高所だと思っていた僕にとって、平野に草原とジャングルの広がるこの地は新鮮だった。

ジャングルの中は、いろんな音がした。
虫の音、枝の折れる男、葉の落ちる音、何かがそれを踏みしめる音。
中でも1番ジャングルに響いていたのは、クジャクの鳴き声。あの可憐な見た目からは想像できない、太くて大きな声。
野生のクジャクは高い高い木の上にいて、ジャングルに朝を知らせていた。

猿の群れが水を飲み、ワニが日光浴をし、鷹が獲物を見据える。丸まった葉に虫の生活を感じ、鹿の足跡にストーリーをみて、何かの糞に時間をとらえた。僕はその生態系に近づきたくて、息を潜めていた。

沼地に出ると、潜めていた息を、無意識に止めた。

サイがいた。

重厚な鎧をまとっているようなサイは、時折顔を沼に突っ込み、水を飲んでいた。

綺麗だった。シンプルで、力強かった。


ジャングルサファリが終わり、象が飼われている園によった。
餌付けされ、つながれる象をみて、空しさを感じた。

象は、生かされていた。
ジャングルで、動物たちは生きていた。
動物園では見られない、真の姿があり、そこに命を感じた。

だから僕は、園の外でひたすらに生活のために蒔きを割っている男をずっと見ていた。



2013年3月12日火曜日

旅プレイリスト

ブログではまだネパールでトレッキングを強制終了したところだが、実際今僕はインドの南、チェンナイからバスで4時間ほどの、その昔フランスに占領されていた街、プドゥチェリーという所で、沈みそうにない太陽と共に常夏の気分を味わっているのです。5分も歩けば、海岸。それに沿うようにフランス植民地時代の名残りある閑静な住宅が軒を連ねる。バラナシの喧騒が、同じ国の土地の中にあるなんて到底信じ難いほどに、まるでヨーロッパのような街並みを、ゆったりとした時が流れているのですが、なにぶん暑くて、かといって泳ぐことを苦手とする僕は浜に出ることもなく、部屋で今にも落ちてきそうな大きなファンを回しながら涼んでいるのです。

ここで!僕と旅を共にする曲たちを紹介しようと思います。暇なので!

曲名/歌手名
①曲に関するエピソード
②曲の中の好きな歌詞

こんな感じで紹介したいと思います。
早速。順番は適当です。

Little By Little/Oasis
①友達の紹介で知りました。数少ない洋楽の一つ。
②All the time I just ask myself "Why are you really here?"

PIANO MAN/Billy Joel
①有名。大好きなので入れました。兄の影響。
②Sing us a song,you are the piano man

SAWASDEECLAP YOUR HANDS/andymori
①大学1年生の時友達に借りたandymoriのアルバム『ファンファーレと熱狂』の中で1番好きな曲。旅にもぴったり。
②教えてくれ これから向かう街のこと 治安と言葉と食事と 教えてくれ こんなにも青い空の下惨めになって歩いて眠るよ

Life is Party/andymori
①Life is partyというフレーズが好きで、この曲をYouTubeでみつけて、聞いたら良かった。歌の中にインドが出てくる。
②勘違いの連続が僕らの人生なら

Sunrise&Sunset/andymori
①適当に見つけて、聞いてみたら良かった。ネガティブなことを明るく歌っていて、結局前向きになれる。
②悲しみは消えない

はぐれ雲けもの道ひとり旅/長澤知之
①友達に教えてもらったアーティスト。綺麗な声。
②君にとってこの生活が時折負担になったなら 恋しくなるまで旅をして 恋しくなったら戻ればいい

イージュー★ライダー/ユニコーン
①入れざるを得なかった。歌詞全てが旅の歌
②退屈ならそれもまたグー

さすらい/奥田民生
①歌詞全てが放浪の歌。
②さすらいもしないでこのまま死なねぇぞ

小さな恋の歌/モンゴル800
①飽きない名曲。ノリも良い。
②ほら あなたにとって 大事な人ほどすぐそばにいるの

イメージの詩/浜田省吾
①作詞作曲は吉田拓郎。桜井和寿さんも歌ってます。このプレイリストの中で、一番自分にはまる歌。
②古い船には新しい水夫が乗り込んでいくだろう 古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へ出る 古い水夫は知っているのさ 新しい海のこわさを

ぼくらが旅に出る理由/小沢健二
①旅人にも、旅人を見送る人にも、ぴったりな歌。
②遠くまで旅する恋人に 溢れる幸せを祈るよ

日曜日よりの使者/THE HIGH-LOWS
①僕の中のドライブソングNo.1
②たとえばこの街が僕を欲しがっても 今すぐ出かけよう

魔法のバスに乗って/曽我部恵一BAND
①曲名に惹かれて。PVは下北沢。
②魔法のバスに乗っかって どこか遠くまで

男達のメロディー/SHOGUN
①だん吉。まさに男を感じさせる歌。しびれます。
②走り出したら何か答えが出るだろうなんて 俺も当てにはしてないさ

白い雲のように/猿岩石
①言わずと知れた旅の名曲。すごく、懐かしい。
②ポケットのコインを集めて行ける所まで行こうかと君がつぶやく



以上15曲。
ぜひこの記事をみた人に、1曲でも聞いていただけたら、とても嬉しい。
コメントとかでも嬉しい。他にオススメがあれば教えてもらっても嬉しい。

2013年3月9日土曜日

高山病

いろんな美しさに彩られたトレッキング初日とは裏腹に、この日はどんよりしていた。今にも雨が降りそうだ。

この予感は的中し、昼過ぎには冷たい雨が降ってきた。昼食をとっていた僕らは、止みそうにない雨の中、合羽をきて出発することにした。

道のない川沿いを歩き、大量の家畜のロバとともに吊り橋を渡り、険しく急な山道を登っていくと、雨は雪に変わった。いや、僕らが雨に変わる前の雪の舞う雲の中に来たのかもしれない。

どんどん体力が奪われた。体を前に倒すことで反射的に出る足で歩いた。人間こんなに遅く歩けるものなのかと自分で感心してしまうほど、歩みは遅かった。

もう限界。もう本当に体力の限界というころ、村についた。村に入って20分くらい、宿についた。

もうほとんど無意識で、部屋に行き、布団に潜りこんだ。それとほぼ同時に、強烈な頭痛と、高熱に襲われた。

こんなに疲れているのに、眠れないほど、頭が痛かった。

トレッキング初日

予定より早い、朝4時すぎにガイドが部屋の前まで来て僕を起こした。
飛行機の時間を遅く勘違いしていたらしい。
慌てて身支度を済ませて、タクシーで空港へ向かった。

両翼にプロペラをつけた飛行機は、自家用ジェットと聞いて思い浮かべるそれに近く、とても小さく、狭かった。

10数名が乗り込むと、大きなエンジン音とプロペラ音をあげて、飛行機は危なっかしく離陸した。

窓をのぞくと、翼は上にあり、景色がよく見えた。そして空に浮くとすぐに、ヒマラヤ山脈が見えた。

朝日に照らされたヒマラヤ山脈は、昆明からの飛行機でみたときより、ずっと大きく、美しかった。

50分くらい経った頃、気圧の変化に耳が痛んだ。着地点、ルクラが近づいて来たのだ。
飛行機はぐんぐんと高度を下げる。たが、おかしい。辺りはまったく空港らしくない。平気で民家が並んでいる。
このままじゃ町に突っ込む!
と思った瞬間、突然足元に滑走路が表れた。
ルクラの空港は、滑走路が崖っぷちにあるのだ。

一杯甘く温かい紅茶を飲み、僕らは出発した。

雪化粧を纏った、高さ5000〜6000m級の山々。広がる畑の緑。土の匂い。サクナゲの花。チベット文字の彫られた大きな岩。たなびく色とりどりの曼荼羅の旗。ヤクの足音、それと呼応する首輪に吊るされた鈴の音。青白く流れる大きな川の音。

きれいだった。
のどかな春の陽気だった。



2013年3月7日木曜日

ワイルドなロシア人たち。

2週間のトレッキングをするため、ネパールビザの延長手続きを済ませ、宿のテラスで本を読んでいた。カトマンズは毎日快晴。日差しは強いが、湿度は低く、日陰はとても気持ちよかった。

その心地良さにページをめくることを忘れぼんやりしていると、白人に声をかけられた。

「この宿ってWi-Fi使えないの?」

ネパールは、電力の供給がとても不安定であり、そこらで停電や節電をしている。
僕の宿もそれに習い、Wi-Fiは17時からしか使えなかった。
そのことを伝えると、礼を言われ、何人か尋ねられた。

「Japanese」
と答えると、彼は嬉しそうに
「そうか!俺は日本人が大好きだ!フレンド。」
と言って、ハイタッチをした。
そして、小指と親指をたて、その親指を口に当て、クイッと上にあげる仕草をしてみせた。

「のもう。」

まだ昼の15時。酒好きな彼はロシア人だった。

彼の部屋にはもう一人友人がいて、3人でラム酒をのむことになった。

日本人の名前は難しいからと、RYOSUKEと紙に書いて見せると、独特のロシアン舌使いで僕の名を読んでいた。

「日本人はどこにでもいる。いろんなところで日本人と出会ったが、みんなとても親切だった。だから俺は日本人が大好きだ。兄弟よ、平和に、乾杯。」

素敵な乾杯の音頭だ。
日本人であることの誇りと、先の旅人たちへの感謝の念がこみ上げた。

ラム酒を2杯ほどのみ、タバコをふかし、適当に話をした。

また後でのもうと言われたが、
僕は明日早くにトレッキングに行くから、これが最後かもしれないと伝えると、
僕のノートにアドレスを書いてくれた。

「必ず俺にメールをよこせ。そして必ずモスクワに来い。友達とでも、恋人とでも、おまえ一人でもいい。おれがモスクワの全てを見せてやる!」

日も傾き始め、彼らは街に出ると言ってバイクにまたがった。
「どこへ行くの?」
と尋ねると、
「わからねぇ!」
と言って走り去って行った。


旅に出る前、行き先がわからないこと、それは僕にとって不安要素であったが、彼らはそれを楽しんでいた。
そして僕もそうとらえつつある。自由を求めて旅に出たのだ。それを楽しまないでどうする。


街は停電し、僕のこの先を暗示するかのように、暗闇の中裸電球がぽつりぽつりと灯っていた。

2013年3月4日月曜日

あるスペイン人の女性。

トレッキングの手続きをツアー会社で済ませて、宿に戻ると、新たな女性客がチェックインをしている所だった。
どこから来たか尋ねると、スペインからだと言う。
スペイン語をしっかり覚えておけばよかったと後悔するも、彼女は英語が堪能だった。

話していると互いに打ち解け、ともにご飯を食べることとなった。
彼女はガイドブックに乗っている行きたいレストランがあるらしい。

実はすごくお腹が空いていた。
機内食しか食べていない不規則な食生活を送っていて、間食もしていなかったからだ。かといってもう暗くなった街をあてもなく歩くのも気が引けていたので、彼女の提案には万々歳だった。

そのレストランはすごくおしゃれで、音楽が流れ雰囲気もよかった。

メニューもとても豊富だったが、せっかくなのでネパールチキンカレーを頼んだ。

食事をしながら、語り合った。
彼女はバルセロナに済む心理学者。
精神的な原因で職につけない人をカウンセリングし、仕事をみつけてあげる仕事をしている。いや、正確にいうと、していた。

彼女は仕事をやめ、家族と離れ、住んでいた部屋も手放し、インドに行った。インドを巡り、この日ネパールに辿り着き、僕と出会った。

人生どこの人とどんな経緯で巡り会うか、わからぬものだ。一期一会。

どこか似ている二人の境遇に乾杯した。

そのあともいろいろなことを話した。
家族のこと、互いの文化のことなど。
二人の旅の先のこととなると、「わからない」と二人で笑った。

けれど、お互いの無事を祈り、再会を誓った。
「スペインに来る時は、案内するわ。」
と言ってくれた。

この先どうするかわからない。それは時として不安を生むが、時にこんなに素敵な行き先を与えてくれる。

「必ず行くよ。」

そう言ってまた乾杯した。

サルート。

軽井沢、ハワイ、いやエベレスト!

昆明から飛び立った飛行機の下には、衛生写真のように大地が広がっていた。
大きな川、その支流に広がる田園地帯、まだ誰も足を踏み入れたことのないであろう山々。
それらは、ネパールに近づいていることを告げていた。

もうすぐ着地することを知らせるシートベルトランプが灯った頃、下ばかり眺めていた僕はふと視線をあげた。
雲を下に、広がる青空。
向こうの方に、鋭い形をした雲が、高い位置に並んでいた。
珍しい形だなと思っていると、それが雲ではないことに気づき、目を疑った。

それは山だった。連なる山々、ヒマラヤ山脈だ。雲を突き破り、厳かに在った。

思わず声の混じった溜息が漏れた。
不安に消されていた旅への興奮がよみがえり、不安を消し去った。
まばたきするのを忘れて、なぜか息を潜め、ずっと眺めていた。

空港を出て、タクシーに乗り込む。
タクシーの運転手に、
「ネパールで何をするの?」と聞かれ、「エベレストを見にトレッキングをする」と答えると、彼は嬉しそうに
「最高だね。Top of the worldだ。」と言った。
Top of the world。この国では決まり文句のように、よく見聞きする言葉だか、この時はひどく心に響いた。

僕の旅はここから始まる。
それはとてもクールなようにも思えたし、どこかあべこべなようにも感じた。


とにかく、ワクワクした。

昆明のコンビニ

昆明に着いた。
時間は21時過ぎ。
昆明を出発するのは、翌昼過ぎの14時。

幸い夜だったので、適当に出発フロアの端っこに寝袋を広げ、眠くなるまでもらった本を読んでいた。

ノドが乾き、うろつき始めたのは23時近く。
下に降りると、「便利店」という看板が見えた。漢字万歳である。

そのコンビニでは、一つしかないレジに10人くらいたかって、あーでもないこーでもない言いながら、売り上げを数えていた。
全く僕に気づかない。

声をかけると、一斉に僕を凝視。
少したじろぎながら、ドルは使えるか尋ねる。生憎元は持ち合わせてなく、替える気もなかった。

「どる?」と一人が聞き返してきた。
「アメリカンマネー。」と言い直すと、
「おーあめりかんどるぅ!イエス。使える」
だって。ほんとかよ。

とりあえずミネラルウォーターを2本レジへ持って行き、「How much?」と聞くと、
「…1dollar…笑」

なんだよその含み笑い!

と思いながらも、1ドル差し出すと、受け取るなり一同爆笑。

「これが1ドルだってさー!ウケるwダサすぎwww」
みたいな感じでみんなで1ドル札を回して、すかしてみたりしてた。

愉快愉快。
これは1ドルの価値も絶対わかってないな。損したのか得したのかわからんけど、そのゆるーい適当な感じが、微笑ましくて、和んだ。
だからよし。

お前そのボリュームだったら電話なくても相手に届くぜってくらい大きな声で電話するおばさんのダミ声を子守唄に、眠る。
たまにそうじのおばちゃんが容赦なく掃いてくるけど眠る。

北京強烈

北京上空は雲に覆われていた。
その向こうに薄っすらと、不自然なくらい整列した高層マンションと大きな川がみえた。


おかしい。
曇って透けるんだろうか。それに、茶色い。
雲じゃない。

土か、チリか、これが噂のPMなんとかというやつなのか、とにかく僕が雲だと思ったそれは、埃の層であった。

空と北京との間には、はっきり境界線があった。
飛行機が北京に飲み込まれた。

北京は夕暮れ時。
その層を通過して、夕焼けは淡く街を包み込んでいた。

しかし、浸っている時間はない。北京ではトランジットが1時間半しかなく、その中で一度荷物を受け取り、入国し、出国しなければならない。
急いで荷物コンベアーへ向かった。

ところが、僕の荷物は一向に流れてくることなく、コンベアーの上につけられた電光掲示板には、次の便名が映し出されたのだ。

慌てて近くのスタッフにたずねると、
「あなたは国際線のコンベアーよ。ここじゃないわ。」
と言われた。
なんだよそんなん知らん!無駄に30分くらい来るはずもない荷物を待ってしまった!

言われたところへ向かうと、無人のコンベアーの脇に無造作に僕の荷物が放られていた。

出発まで時間がない。
重い荷物を抱え、端の霞むほど広い空港を駆け回る。

ようやく、昆明行の飛行機に乗るためのチェックインカウンターを見つけたが、そこには行列が出来ている。
出発の時間まで、もう20分を切っていた。

チェックインカウンターで客を整列させるお兄さんにEチケットみせて泣きついた。
「これ乗りたいの。乗らなければならないの。」

するとお兄さん血相変えた!
僕からパスポートとEチケットを奪い、割り込んでいってチェックインを済まし、「ついてこい!」と走り出す!

やべかっけー。

「こっちだ!ここに荷物を預けろ!」
ともう閉まっていた所を開放してくれて荷物も無事あずけることに成功。

「しぇいしぇいー。しぇいしぇいー。」
と僕が言っても
「いいから走れ!」と僕の背中を押すお兄さんに、僕は幼き頃に見たヒーローの姿さえ覚えた。

ということで搭乗ゲートまでダッシュ!
足吊りそう!
300mくらい走ってようやく到着。

肩で息をし、汗をぐっしょりかきながら、飛行機に乗り込み、乗り継ぎが完了したことに安堵した。


足は吊った。


初心

2月20日、雲の上で、僕は最初の日記を書いていた。

これから中国で2回乗り継ぎ、最初の目的地、ネパールのカトマンズへ向かう。

2回目の乗り継ぎ地昆明では、17時間もの長い時間がある。
よって、カトマンズにつくのは翌日21日の午後だ。

旅が始まったような、でもまだスタート地点に立っていないような、中途半端な状況に比例して、僕の心情も心許なさと興奮の間にあった。

1年。この身一つであてもなくさすらう。ただひたすらに。

自分の足と意志がつながってないような気がして、自分の目に映るものと現実が一致してないような気がしていた。

でも、そのズレを修正するには十分すぎるほど、僕の最初のフライトは長かった。

2013年2月6日水曜日

僕が旅に出る理由

「誰かを納得させる理由なんていらない」

誰かが言ってたこの言葉は、僕を軽くするのだ。




そうなのだ。

理由なんていらない。

ましてや人から理解されようなんて、さらさら思ってない。

「理由なんていらない場所へ」

それが僕の旅に出る理由なのかもしれない。

1つの社会に居座り続けると、
どうしても世間体が生まれ、常識が生まれ、
何かと理由をつけないと、誰かの納得を得ないと、
ダメなんじゃないかと思えてくる。

僕はそこから離れたかった。

僕が描く「自由」がどんなものか、実感したいのだ。

感じるままに、

自分の中に芽吹く衝動を軸に、

進むのだ。

別に格好良くも、悪くもない。

けれど、僕を大きく震わす大志に、身を委ねたい。

誰に何と言われようと、僕は僕の自由を求める。

どこだっていいんだ。

でも、ここじゃないんだ。