2013年6月9日日曜日

砂漠とトカゲとフンコロガシと僕

イランの中央、不毛の大地に囲まれたオアシス都市、ヤズド。古き良き雰囲気の残る旧市街は、土壁の低い家が並んで、道を複雑に絡ませる。面白そうな方へ、歩いて、迷って、突然小路から飛び出してくる子どもと挨拶を交わすのは、ヤズドの一つの楽しみ方だ。

街は小さく、メナーレが青空に突き刺さる歴史的なマスジェデや、人々の生活を支え続けるバザールも、歩いて回ることが出来るが、近郊にも魅力的な見所が在る。

ゾロアスター教徒の墓地の跡、「沈黙の塔」。土や火を神聖なものとした彼らは、土葬や火葬はそれらを穢すものとし、この地で鳥葬を行った。遺体を鳥に食わせたのだ。
その他にも、ヤズドとその近郊には、ゾロアスター教徒の歴史を知るうえで、重要な場所がいくつかある。そして彼らの後裔は、今なおこの地で暮らしていたりする。

しかし、実のところ、僕はそのどれも訪れなかった。
僕がこのヤズド近郊で、最も惹かれて、そして足を運んだ所は、今までどんな人間も、そこに歴史を築こうと思わなかった、砂漠であった。

インド、ウズベキスタン、UAE、オマーン。いろんな所に、砂漠はあった。どこにも僕の足跡を残すことはなかったけれど、何故かこのペルシャの地で、砂漠に足を踏み入れたくなったのだ。

タクシーをチャーターして、ヤズドから100km離れた砂漠を目指した。といっても、ヤズドの街を出てしまえば、景色はすぐに物寂しそうな砂漠になる。けれどそれは、砂利と岩山でつくられた、なんとも色気のないもので、時速120kmで進む道中は退屈だった。

ナツメヤシの木が茂る、小さな村を抜けて、車は止まった。後部座席の窓から除く限り、僕らを囲うのは相変わらず頑固そうな砂利砂漠。まさか、このいささか面白みに欠けた荒野をひたすら歩くわけじゃなかろうかと、疑いながら車を降りると、開けた前方の視野に、突然、細かな砂粒から成る砂漠が飛び込んできたのだ。

優しく、柔らかにうねる砂丘が幾重にも重なる。僕の足は意識よりも早く、一番高い丘に向かって歩き出していた。

風がつくる砂山とその肌の模様。そこに暮れ始めた日の光が降り注ぐ。風の向き、日の傾き、砂漠は生きているかのように、動いていく。姿を変えていく。僕の足跡は、それに飲まれていった。

丘のてっぺんに立って、辺りを見渡せば、僕の歩みを重くした砂山のその美しさに、疲れは癒される。ツンデレ女に弄ばれているようだけれど、その美貌は見惚れてしまうほどだった。

ただの砂地に、当然の自然の摂理が働くだけで、僕は美しいと感じてしまう。

足音も立てずに這う、フンコロガシの目には、この砂漠はどう写るのだろう。滑るように走るトカゲの目には、この夕日はどう写るのだろう。
いつものことだと、当たり前のことだと、息をするように受け止めているのだろうか。

僕は、こんな当たり前の現実が美しい。息を飲むほど、涙をおぼえるほど、美しいのだ。

人に揉まれ、時代に流され、僕は汚れてしまったのだろうか。
もしそうだとしたら…

汚れゆくことも、悪くないと思えた。
当たり前のことに、無知でありたいと思えた。


イラン人は偉大なり

"Welcome to Iran"

街を歩いているだけで、すれ違いざまに、暖かく迎え入れられる。
こちらも笑顔を返さずにはいられない。

人々のホスピタリティが、空気にまで染み付いているような、イランはそんな国だ。

意味もなくキャンディをくれたり、丁寧にバスの乗り方を教えてくれたり、時には車で送ってくれたり。思いやりに胡座をかくことが、くせになってしまいそうだ。

なんとなく中東だからとか、核兵器を保有している疑惑があるだとかで、「危険な国」と判断されがちなイラン。しかし実際訪れてみれば、こんなに安全で、旅人に優しい国が、他にあるのだろうかと思う。都合よく切り取られた、ほんの一面だけを見て、全体を判断してしまうことの愚かさを思い知らせてくれる。

Islamic Republic of Iran。国の法律や制度にまで、宗教に因る所があるこの国は、もちろん人々の信仰心も強い。サラートの時間には、家の中でも、公園でも、メッカに向かって祈りを捧げる。金曜日には多くの人がモスクを訪れる。日本では宗教というとマイナスのイメージが強いけれど、これだけ素直に宗教の教えを信じ、それに従う人々の姿をみると、彼らの優しさは、イスラム教に起因するものなのではないかと思ってしまう。

しかし、もちろん中には宗教の枠に収まることを嫌う人もいる。

シーラーズで建設会社に勤める男性と話した時のことだ。

「お前はどの宗教の信者だ?」

日本の外に出れば、先ず聞かれるありふれた質問だ。僕も旅の途中で数多くの人から尋ねられ、定型文のように、答えは用意されていた。

「僕は無宗教だ。日本では仏教や神道の側面をみることができるけれど、多くの人はそれを信仰しているわけではなく、無宗教だよ。」

すると彼は笑いながら、

「最高だな。俺もイスラム教なんて糞食らえだと思ってるよ。ロクに女の顔も見れないしな。」

と言った。やっぱりこんな人もいるんだなと、スカーフが乱れた女の人の髪を見るたびに奇妙な罪悪感を抱いていた僕は、少し安心した。
けれど、次の彼の質問に、僕は漫画のように、意表を突かれてしまった。

「でも神は信じる。お前もそうだろう?」

僕の頭には何も浮かばなかった。僕にとってそれはあまりにも斬新で新鮮なアイデアだったから。

「僕は…。」

きっと神様を信じていない。だけど、「宗教=神を信じること」だと無意識に決め付けていた僕にとって、「宗教は信じないけど、神を信じる。」というテーマを前に僕の思考は混乱に落ちた。

それは一体、どういうことなんだろう。彼の言う「神を信じる」ということは、どういったことなんだろう。

僕はこの旅を通して、神の存在を認めるようになった。けれど、神の言うこと為すことに従おうとは思わない。何にしたって自分の感覚を信じて生きていきたい。でも…。

「わからない…。」

何も聞けず、何の答えも出ず、ただ弱い声が漏れた。
そこからこの話が弾むことはなかった。




そんな少しアウトローな彼も、僕への敬意と気遣いには頭が下がるばかりだった。当たり前だけど、信仰心の強さ=ホスピタリティの高さというわけでもないようだ。
なぜこんなにも、何処の馬の骨かもわからない、彷徨える訪問者に、まるで親のような、兄弟のような心を持つことができるのだろうか。

テヘランで僕のホームステイを受け入れてくれた男性の家族を訪問したとき、彼らは生粋のムスリムだったけれど、その疑問に対する、シーラーズの彼とのやりとりにも綺麗に辻褄の合った答えを、彼の言葉の中にみつけた。

"Guest is a friend of God"
「客人は神様の友達」

なるほど。


きっと、「神を信じること」は、この国で生きていくうえで、イスラム教徒であるとか以前に、最も重要なことなのだ。その理念は、無意識のうちに、多くの人々に浸透していて、さらにその上で、あらゆる人種や出来事を受け入れることができる考えが存在している。
神を信じていれば、寛容な人間になることができ、結局神を信じていない人も、窮屈することなく暮らせる。

神は、争いを防ぎ、生活と平和を円滑にするために、誰かの中に存在している。
ここまで多くの人の中に居るのは、ただ神の偉大さだけによるものではなく、やはり人による宣教や政治の賜物ではあるのだろうけれど、、、

やっぱり凄いですね、神様、あなたは。
仲良くしようぜ!