2013年4月24日水曜日

僕のプシュカル湖

アジメールからプシュカルまでは、距離にして10kmほどだが、一つ山を越える。うねる道を、バスは大きな遠心力を帯びながら進んだ。

プシュカルは、プシュカル湖を中核に広がる小さな街だ。湖といっても、15分も歩けば一周できてしまうような、池とも呼べる小さなものだ。それでもこの湖は、ヒンドゥー教徒にとって神聖な場所であり、多くのインド人が礼拝をしに足を運び、その姿を見んと観光客が群がる。

しかし僕がここへ訪れたのは、ある本の影響である。その本は、40年ほど前にインドを放浪した男性が綴った旅行記のようなもので、僕が日本を発った日に、成田空港で友人からもらったものだ。辞書のように分厚い本であったため、読み終わった電車の中の、天井から吊り下がった、埃を纏った扇風機の上に置いて来てしまったが、僕はそこから多くのヒントを得た。その中で、このプシュカルという場所が、やたらめっぽう出てくるのである。そこからなんとなく、彼のプシュカルへの好意が伝わり、僕はその理由が気になったのだ。

本から僕が抱いていたプシュカルのイメージは、大きく覆された。四方を不毛な砂漠に囲まれていたというプシュカルの街は、今では活気に満ちていた。湖に沿って円を描く道には、外国語で書かれた看板や、雑貨やインドの衣装を扱うお店、安宿で溢れている。筆者は外国人である自分は好奇の目でみられたと記すが、僕は湖に浮かべるピンクの花を押し付けがましく売りつけられたり、気安く「ジャパニー、ジャパニー」と声をかけられたりした。

「随分変わったな。」

初めてきた土地であるプシュカルで、奇妙にも僕はまずそんなことを思った。



湖を半周すると、僕が身を置いている宿の背後に、小さな山があって、その頂上に、小さくお寺が佇んでいるのに気づいた。
ただ単に、この街を上から眺めたかったのか、この忙しない人の流れから逃れたかったのか、なにかもっと違う衝動が僕を動かしたような気もする。太陽が真上から少し傾いた、一番暑いときではあったけれど、僕はあの山に登ることにした。

頂上では、寺を管理する男が、快く迎えてくれた。小さな山といっても、照りつける太陽の下、無防備に山道を登った体は疲弊して、彼と寺の中の小部屋に腰をおろした。部屋の中は気持ち良い風が吹き抜け、汗がゆっくりと乾いてゆくのが、とても心地良かった。
僕がこの街にきて最初に抱いた奇妙な感想を裏付けようと、彼に40年前のこの街の姿を改めて尋ねた。
砂漠の乾燥から身を守るように、僅かな水気を求めて牛の鼻頭に集まるハエのように、湖の周りにへばりついた、ここに住む人の家と寺以外は、何にもなかったという。

外に出て、町を眺めてみた。
大きく広がったプシュカルの町の今の姿が、よく見て取れた。
その中核にあるのは、今日も相も変わらず水面に空を写す、湖。小さな点と化した人間が、水浴びをしているのが見えた。

なるほど、良い所だな、プシュカルは。
時代に流されて、変わっていった町を、支え続けているのは、何十年も、何百年も、変わらぬ空を写し続ける、未だ変わらぬ湖。この湖がある限り、この町がどんなに変わっていこうと、壊れてしまうことはないだろう。

人は、必死で変えようとしたり、変化を受け入れられず嘆いたり、変わらないことに苛立ったりして、そうやって日々変わっていく。過去の僕と今の僕は違う。今の僕と明日の僕も違うだろう。
そうやって流れていく僕らを、支えているものは、変わらないものなのではないだろうか。プシュカルの人における、プシュカル湖がそうであるように。
頑なに、変わらぬように守っているもの。
日々の変化に、そんな無変化があって、僕はつくられ、僕は動いていく。プシュカルの人と湖が、町をつくるように。

じゃあ、僕にとって、変わらぬものってなんだろう。変えたくないものってなんだろう。僕のプシュカル湖は、その水面に、一体何を写しているんだろう。

こんな旅をしていて、それに気づけるだろうか。一生のうちで、それに気づけるだろうか。


少し強い風が吹いた。


僕はまだ旅を続けたいと思った。
旅はまだまだ続くと思った。

2013年4月10日水曜日

潔白

ブージの街から北に向かって少し車を走らせると、荒漠たる原野が広がり、不釣合いに整然とした道路は、真っ直ぐに伸びて、陽炎は、地平線でその道を溶かし、天と地の境は曖昧に白くぼやけていた。

"White Desert"。インドの西の端、パキスタンとの国境付近に、真っ白く広がる塩の大地があると聞いたとき、僕は予定していた旅のルートを修正した。もともと行き当たりばったりで立てていたプランだったから、躊躇いはなかった。「いま一番行きたいと思った場所へ行く」ことが旅であり、そしてそれができるのが自由なのだ。そしてその二つが今の僕だ。

White Desertまであと30kmばかりという所で、entry feeを払う。そこをすぎると生命の気配は消え去り、静かで、険しい星だった。自然現象の何もかもが、その凶暴さを遺憾無く発揮し、地表を荒らしていた。

進むにつれて、段々大地に塩の痕が、不規則な模様となって現れた。まるで地球が汗をかいているようだ。
車は駐車場らしき空き地に止まり、ここから先は歩くように言われた。
少し歩けば、大きな、宝石にも似た塩の結晶がゴロゴロ落ちていた。しかし泥も混じっていて、White Desertという感じではなかった。
訪れる時期を誤ったのだろうか。
一抹の不安を抱えながらも、さらに歩みを進めると、見えてきたのだ。真っ白な大地が。



そしてその域に足を踏み入れたとき、その白は僕の頭までも侵し、僕は本当に無能だった。何も僕から表現できずに、ひたすら地球ばかりに見せつけられた。

白い大地と、青い空。ここを描写するにはそれだけで十分だった。こんなにもシンプルで、明快なものを、今までの人生で見たことがなかった。
僕がどんなに足掻こうと、叫ぼうと、世界は嘲笑うかのように、僕を捕らえた。

地上に吹く風が、完全に吹いていた。唯一僕だけがそれを遮る場所をつくっていた。太陽が狂ったように照り、塩は輝きを帯びてそれを跳ね返し、僕の眉間を痛みつけた。そこから逃れる術もまた、僕自身が地面に与えている影のみだった。

灼熱に絞り出された僕の汗は、瞬く間に風に奪われ、無限の塩の中へ消化されていく。White Desertは僕を食べ、僕はそれに無抵抗だった。



僕は蟻のように小さく、塵のように無力だったけれど、こわくはなかった。
僕は、まるで産まれたばかりの赤ん坊の如く、きれいだったと思う。

2013年4月5日金曜日

アジャンターと仏と僕

僕が南インドを抜け出して西インドのアウランガバードに立ち寄った理由は、アジャンター石窟という遺跡群を見ておきたかったからだ。そのくせ、僕はこの遺跡に関する知識を、何一つ持ち合わせていなかったのは、相変わらずのことだ。
しかしこの遺跡はインドで何としても目に入れなければならぬ、いわば課せられた使命とも言うべきもので、それはどうしてかと言うと、ここは貴重な親族からのお墨付きであったからである。

といっても、一番近い大きな街アウランガバードからバスで片道3時間という孤高なこの遺跡は、近くに安い宿がないくせに日帰りするためには早朝のバスに乗らなければならず、僕の面倒くさがり気質に起因する「行かなくていいのではないか」という思いと幾度か葛藤した。

3月の最終日朝5時40分。僕はしっかりとアジャンター行のバスに乗り込んでいた。
3時間の道程は、襲いくる猛烈な眠気に丸腰でやられてしまおうと思ったのだけれど、荒い運転と粗悪な道路が心外にも僕を守ってくれて、一睡もすることができなかった。

仕方がないからチェンナイの宿に置いてあった日本語インドガイドブックのアジャンターのページを撮った写真を見た。この時初めて、僕はこの石窟が壁画で有名であるということを知った。
てっきりエローラやハンピのように岩をえぐったヒンドゥーの寺院が並んでいるとばっかり思っていて、そして正直その種の遺跡にはもう見飽きていたため、「壁画」という響きにアジャンターへの期待は高まった。

バスを降り、チケットを買い、急な坂を登ると、景色が開け、逆U字型の崖をえぐっていくつも寺院が作られているのがわかる。正直この光景は迫力に欠けていて、崖にぽつぽつと穴が空いているだけだ。

しかし一度その寺院の中に入れば、
僕に期待を与えた壁画は、さらにその期待をはるか上回ってみせた。


色味に富んだ鮮やかな絵が壁、柱、天井の隅々に至るまで描かれていて、その美しさ、壮大さ、そして寺院の外見からは想像も出来ない迫力たるや、時間が過ぎるのも忘れて見入ってしまうほどだ。


そしてもう一つ、この石窟で僕を虜にしたのが、仏像だった。このアジャンター石窟は、遺跡の全て(僕が見た限り)仏教寺院で、必ず一番奥に菩薩が彫られていた。

この、ヒンドゥーの神に埋もれたインドの仏を見たとき、またも僕は宗教というもの、とりわけ、自分の信仰心について、思う所があった。

僕はきっと、仏を見る度にいつも、よく考えれば原因不明の、オーラや威厳を感じていて、ここアジャンターの菩薩を目にした時にも、例外なくなにやら漠然とスピリチュアルな力がありそうな気がしてしまったのである。
しかし、今まで散々見てきたシバやガネーシャなどのヒンドゥーの神々には、そんな凄みを感じなかったことに気づいた。いや、気づいていたのだけれど、無宗教であるはずの僕にしてみれば、そんなことは当たり前だと思っていた。
でも僕は、仏様を前に、何か目に見えないものに少し圧されて、萎縮している。
きっと僕がシバやキリストをみてそうであったように、この仏をみてもなにも感じない人はいる。その人と、"無宗教"であるはずの僕は、大きく異なる。

誤解を恐れずに言えば、このアジャンターの菩薩を前にして、僕は仏教徒なのだなと思った。日本は仏教が根強い国だなと思った。

2回続いて神様に関するブログを書いているけれど、怪しい宣教師にあって洗脳されたりしているわけではありません。
この菩薩は僕の今までの考え方や生き方を、なんにも変えていないのだけれど、新たな自分を気づかせたかもしれない。
経典も、輪廻も、極楽も、どうだっていい。ただ、僕は「仏様」の存在は、どこかで認めていた。これは、信仰心なのかもしれないなぁ。

手の指が欠けた仏様は、微動だにせず静かに目を閉じていた。

2013年4月2日火曜日

神様との出会い

地球にある異星。この世界にある異世界。

ハンピに降り立った時、僕はそんなことを思った。

巨岩が群れをなして不均衡に均衡を保ちながらつくる山と、その狭間に広がる緑鮮やかな大地。こんな光景が地球にあったのかと、誰もが自然の創造力に跪くであろう。
しかしその中に点在する無数の遺跡たちは、その自然と絶妙に協調しながら、確かにここが地球人の住む地球であることを物語っていた。

その風景だけで計り知れない価値のあるものだが、それをつくる遺跡の一つ一つも、大きさ、状態、芸術性に優れる、圧巻なものばかりだ。

しかし、僕のことをこれまでにない摩訶不思議な境地に誘ったのは、そこに彫られたり、描かれたりして、永く人々に祀られる神々の姿であった。

ほぼ無傷の状態で残る大きなラクシュミ像。宿やレストランの名前として街中でもよくみられるこの神の姿は奇怪で、般若のような表情、大きな口には牙を生やし、飛び出した目、背中からは7頭の大蛇が伸びている。

モンキーテンプルと呼ばれる寺には、猿のような姿をした神が描かれている。毛深い体、浅く白髭を顎にたくわえ、鼻の下は猿のそれのように膨れている。

これらの神の姿は、僕の想像力じゃとても追いつけないほど独創的で、その細部一つ一つに、疑問を抱くほどだ。

何故、こんな姿にしたのだろう?

僕が「なぜ?」と思った時は頑固で、その納得いく理由みつかるまで、例え結局それが独りよがりの屁理屈に終わったとしても、考え抜くことをやめない。

しかし、この時ばかりは、この奇々怪々な神々の姿のワケを説明できるアイデアが、一向に僕に浮かんでこなかったのである。

そしてとうとう言い訳を考えることを降参した僕は、まさに人は神の前に無力であることを、新たな実感とともに思い知らされたのである。

この時ぼくは、
「ああ、神はきっといるのだな。」
と思ったのである。

なぜこんな姿をしているのか説明が出来ないのは、それはつまり、神というものは人間が作ったのではなく、人間が“考える”という手段を身につけるずっと以前から、存在していたからなんだろうな。
今まで神の存在など信じたことのなかった僕は、無邪気にそう思った。

もちろん僕は今まで通り、ヒンドゥー教徒
でもなんでもない。
けれど、何処かの惑星のようなこの場所で、地球の神の存在を、強固に感じさせられたのであった。

裏アジア予選

Fort Cochin。ケララ州にあるこの街は、その昔ポルトガルによる支配の下、貿易の中心地として栄えた港町だ。今ではその面影残しながらも、多国籍チェーン店や洒落たレストランが街を飾る。一方で、海では盛んに漁が行われ、少し足を伸ばせば緑豊かな自然の姿も見ることができ、これほどまでに多方面で豊かな土地は、広きインドといえど数少ないだろう。

しかし、魅力あふれるこの街で、何よりも僕を魅了したのは、ここでしか見られない漁法チャイニーズフィッシングネットでもなく、赤く熟れたマンゴーでもなく、アートギャラリーを兼ねたカフェでも、様々なアクセサリーの敷き詰められた雑貨屋でもなかった。

それは、サッカーボールを追いかける少年たちであった。
下手くそな見切りブレーキが体を壁に打ちつけるバスの中からその姿を見つけたとき、この旅では新しく、でもどこか懐かしい興奮を覚えた。

その興奮冷めやらぬまま、あの悪しき記憶ヒマラヤ山脈のトレッキング以来封印していた厚手のソックスをサッカーシューズ代わりに取り出し、足早にグラウンドへ向かった。
疼いてる僕にとって、宿からグラウンドまでの道程は果てしなく、まだ少年たちはいるか時計を見ながらソワソワして、グラウンドが見えるとついに僕は走り出したのであった。

彼らはまだいた。予想通り、裸足で、予想以上に、石の転がる土の上を、元気いっぱいに駆けていた。
クロックスを脱ぎ捨て、ソックスを履いて、混ざる。快く受け入れてくれた。

ビーチサンダルで枠を作ったゴール二つ。たて、20Mちょっと、横、無限大。

チームは一番年上の少年に勝手に振り分けられる。

チームメイト、メッシのユニフォームを着たサッカーど素人、およそ8、9歳の少年と、キーパーしかやりたがらないこちらもサッカー未経験、10歳くらいの少年。
相手チーム、サッカー経験ありの中学生二人と、キーパーを務める勇敢な少年。
名目3人対3人、実質3人対僕。
これがアウェーの洗礼インドの笛。
上等だ。思い切りやるしかない。無論勝つ。

少しばかり期待していた僕が馬鹿馬鹿しく思えるくらい、チームメイトのメッシは役立たずだった。
メッシは守備も攻撃もせずに、ボールを渡せばダイレクトで僕に返す、つまり、試合に参加してるとは到底言い難いプレースタイルだった。
しまいには、「空手は好きか?」など聞いてきては、空手の型を真似してみせた。

そんなこと御構い無しに、相手の中学生たちは自慢気にパスを回し、フルパワーでシュートを放ってくる。

だが所詮14歳とそこらの少年に、10年サッカーの教育を受けてきた私が、負けるわけにはいかないと、そのプライドと、いまだ体が覚える技術を頼りに、食らいついた。

一進一退の攻防が続き、7-7となった時点で、疲れがみえ始めたのに終わりが全くみえなかった僕は、10点マッチを切り出す。
あと3点。本気で勝つ。

9点まで連続で奪取し、9-7と優勢になったが、そこからの奴らの一丸となったディフェンスたるや、カテナチオもびっくりの、セレソンもきっと破れない屈強さで、僕のドリブルとシュートはことごとく封じられ、一方僕のチームといえば、メッシは空手の蹴りでゴールポストを示すビーチサンダルを吹っ飛ばしてしまったりしてるわけで、つまり、そこから3点取られ、9-10の敗北に帰したのであった。

久々に本当に悔しかったが、この一試合に賭けていたから、これ以上戦うことには気が進まず、彼らのもう一試合のオファーを断り、木陰で体を休めながら、惜敗の涙をのんだ。

僕が抜けたことで、光栄にも少しばかり面白みを無くした彼らは、だらだらとボールを蹴っていた。