2013年3月27日水曜日

カニャクマリの太陽

インドを囲む3つの海、アラビア海、ベンガル湾、インド洋が交わり、この広大な国インドで唯一、海から日が昇り、海へと日が沈む場所。

このことを知ったと同時に、僕はカニャクマリへの行き方を調べていた。そこはインド最南端の町。南に突き出したコモリン岬には、その聖なる海に身を清めようと、沐浴場がつくられた。

多くのヒンドゥー教徒たちが、そこを神聖な地と崇め、混沌とした海と、それを様々な色に染めながら、現れては消えてゆく太陽を拝めようと、人々は鋭利に尖ったインド大陸の先端を目指す。

カニャクマリは、いままでの町と違い、インド人向けの雰囲気だった。インド人にとっての生活品や嗜好品を、インド人に向けて売る店が多い。もちろん観光客目当ての客引きもいるが、量、しつこさともに他に劣る。この町で見るものといえば、海と太陽。そう言ってしまえばそれまでで、わりと何処でだって見れるものに、価値を見出す観光客は、あまりいないらしい。

町に着くや否や、海の方へ歩いた。とりあえずその聖なる海とやらを、この目で見てやろうじゃないか。町は小さく、海まではあっという間に行けた。

老若男女問わず、磯辺に造られた、小さく、でもどこか誇らしげに佇む、神殿のような沐浴場で、それは沐浴なのか海水浴なのか、とにかく楽しそうに海に体を委ねていた。足を撫でるほのぬるい海水が、はしゃぎ声に躍っていた僕の心を助長して、僕も海に入った。結局これは、何湾で、何海で、何洋なんだろうとか思いながら、すべての筋肉を一切波のやるように任せ、海月のように漂っていた。



町がほんのり橙を纏い始めたのは、18時ころだったと思う。南インドは、本当に日が長い。宿で昼寝をしたり、バナナを食べたり、露店を冷やかしたりして暇を潰していた僕は、再び岬へと足を運んだ。
そこには、およそ、この小さな町に訪れた人、住んでいる人、その全てが、水平線の向こうへ沈んでいく夕陽を見んと、同一の方向を、独りで、家族で、友人と、恋人と、様々な境遇で、でもそれは全く同一のものを、きっと全く違った捉え方で、見ていた。こんなにも人は太陽を見たいものなのかと不思議に、少しばかり馬鹿馬鹿しく思ったりもしたが、一度彼らと同じ方向に目を向ければ、その理由を示すには雄弁すぎるほど、真っ赤に膨れた夕陽が、所々雲に身を切られながら、空を染め、海を染め、岩を染め、浜を染め、僕らを染めた。それはその赤みと大きさをさらに増しながら、昼間よりもずっと速く進んだ。雲に隠れてしまい、水平線の向こうへ行ってしまってからも、空と雲にはその色が染み付いていた。
沈んだ陽は、同時に朝陽となりどこかへ昇り、そうやって朝と夜を作りながら、再び反対の海の方から、戻ってくるのだ。




なら、迎えに行ってやろう。



今度は翌早朝、朝陽となってやって来るという太陽を見んと、岬へ行った。
御来光というものを拝めたのは、これが初めてかもしれない。

岬には昨夕に劣らぬ人々が、今度は揃って東の海を見ていた。

その姿見せずに段々と紅色に雲を染めていく朝陽は、そのままその心開くことなく白き太陽となってから、僕らを日陰へと追いやるつもりなのかと思った頃、それは雲の優しさか、朝陽の僅かばかりの社交性か、一瞬、だがしっかりとその全貌を、僕らに晒したのだ。

朝陽は、美しく、力強く、希望に満ちていた。
この旅を始めた後、始める前、つまり、僕の人生において、僕がみたもの、そのどれよりも澄み切っていて、今その朝陽を取り巻く世界の状況そのどれも無関係に、ただ朝陽が美しかった。
そして、力強かった。何億回、何兆回も繰り返しても、尚且つその勢い衰えることなく昇り来る太陽の力強さを前に、僕はただただ無力で、打ち砕かれた。
そして、僕は洗い流された。その光は、僕の過去のすべての罪とか、悲しみとか、恥辱とか、一切を消し去り、僕の前途を照らした。それはまさに、希望の光だった。


コモリン岬でみた、この毎日どこかで起きている、そして起きてきて、尚も起きていくだろう、太陽が為す神秘に、自然の美しさ、歴史の重み、非力な僕らが考え抜いた全てのことの意味、そのどれもが詰め込まれ、表されているような気がした。










2013年3月26日火曜日

りょうすけ

なんとか生きて南インドにたどり着いた僕は、カトマンズの日本料理屋で出会った韓国人に教えてもらったPuducherryという所を目指した。僕がブログで『旅プレイリスト』を更新した場所だ。そこでも少し触れたように、そこは元仏領。色とりどりの洋風建築の家々が、街を彩る。

チェンナイからPuducherryまでは、直接行けばバスで4時間ほど。僕はその間にあるマハーバリプラムという、大きな遺跡のある小さな町に一泊したが、そこのことは割愛する。

プドゥチェリーについて知っていることは、またの名をポンディシェリーということぐらいで、見所も、地理も、本当に何も把握していなかった。

到着したバス停で、上品そうで、少しばかり裕福そうな男性に、安宿は知らないか尋ねたところ、「あっちの方にOcean Guest Houseという宿があるが、そこがいいらしい。」と言ってきた。自分の足で宿を探し回りたかった僕は、「あっちの方」ということだけ頭に入れて、礼を言って別れた。

「あっちの方」に行くと、確かにGuest Houseという看板がちらちらと現れた。しかしどこも、僕のこの餞別にもらったスペインの神様が刺繍された、皮の古びた小銭入れに入った、その小銭入れの雰囲気を崩さない貧相な額のルピーたちが賄えるような宿代ではなかった。

肩に食い込む13kgある55lのリュックによる乳酸が、南インドの灼熱の太陽を餌にして、僕の筋肉と焼けた肌を痛みつけてきたので、もう高めの宿に荷物を置いて代わりにこの小銭入れを痛みつけてしまおうかと思い始めた頃、目に飛び込んできたのは、『Ocean Guest House』の看板だった。

バス停の男が教えてくれた宿。見た目が小綺麗なことに少しがっかりし、駄目元でフロントに入ってみると、カウンターにはバス停のその男がいた。「やっと来やがったな!」と言ってるような含み笑いを浮かべる。そういうことだったのかこのちゃっかり野郎。ただ、この男は心の優しさがにじみ出てるような表情、口調、仕草で、僕に嫌悪感はなかった。そして、喜ぶべきことに、部屋が安かったのだ。刺繍の神の笑い声が聞こえたような気がしたのは、疲れているからで、すぐさまこの宿に決めた。

部屋に行く途中の階段に、日本人が座っていた。出会いというものは本当に不思議で、突然訪れるものではあるが、そのタイミングや人の種類は、自分の念によって確かに左右されているのではないかと思わせる。僕はこの地のことを誰かに聞きたかったし、日本語が恋しくなっていたのだ。

会社を辞めて、世界を旅する彼の名前は、りょうすけさん。同じ名前だ。話しているうちに、他にもいろいろな共通点がみつかった。同じバイト先、同じ境遇、インドを回るルートもほとんど一緒だった。栃木県出身ということで、地元の話でも中々盛り上がれた。共通点が多いから話しやすいのか、話しやすいからこうも共通点で話が弾むのか、とにかく、こんなに楽しく、時に真面目に語り合ったのは、旅に出て初めてのことだった。
シバ神の誕生日か何からしく、インドは祝日で、店はほとんど閉まり、街は眠っているように静かだったけど、そんなことはどうってことなく、充実した時間が過ごせた。

「必ずまた日本で会いましょう。」

別れたあとに強く感じた、自分が「独り」であるという感覚は、それが良い出会いであったということを示していた。


※僕がりょうすけさんと過ごした時間をもう少し詳しく知りたい人は、りょうすけさんのブログをご覧ください。
http://ryosukeoka.wordpress.com/2013/03/13/そ、そんなつもりは無かったでんす。本当です。/


2013年3月23日土曜日

38時間の車窓から

居心地の良いバラナシの、燃え盛る火葬場真裏のゲストハウスの、鼠と蜥蜴が這いずり回る小部屋をあとに僕が目指したのは、南インド最大の都市、チェンナイ。

「暑くなる一方のこの時期は、旅行者はこぞって北へ行く。」

宿主の言葉が、僕の天邪鬼精神が握る舵を南に向かせた。

チェンナイまでは、バラナシの隣駅ムガルサライから、電車で38時間。
3月7日の23時半にムガルサライを出て、3月9日の13時半にチェンナイに着く予定だ。


しかしこれが想像を絶してつまらなく、尚且つ過酷だったのだ。


寝れると聞いて買った一番安いチケットが示す席には、老婆が寝転んでいて、そいつをどかしても、十分に横になれる広さはそこにはなかった。このチケットは、僕に隣の席のインド人と代わる代わる睡眠をとることを強制したのである。


そして24時間首尾一貫して列車に乗ることを全うした3月8日は、記憶にないほどに、直向きにぼーっとしていた。
窓の外を眺めるのも、本を読むのも、音楽を聞くのも、すべて、「ぼーっとする」という行為の延長線上にあって、よって、僕がこの日吸収したものは、これっぽっちも無かった。

こんなにもぼーっとすることが板についてしまうのは、体調が悪いせいではないかと思い始めたのは夕方頃で、前日バラナシ最後の朝食で食べた絶妙な半熟目玉焼きが犯人と思われる腹痛に襲われ、それに便乗するように、昨夜席を譲り合いながら寝たストレスが、微熱や眩暈や吐き気といった、あらゆる形の不具合となって僕を攻め出したのである。

今夜は夜通し横に寝かせてくれという気持ちを、口では言わぬが、表現できるそれ以外の体の部分全てを使って露わにし、半ば強引に足を伸ばしていたら、僕の気の毒さと図々しさが、インド人の優しさを引き摺り出すことに成功し、上のベッドを譲ってもらえた。

しかし僕の本当に情けないところはこの後で、真夜中に目を覚まし、床で寝ている人を踏まぬようにふらふらとトイレに行って、10分ほど下痢を垂れ流し、口に指を突っ込み盛大に吐き散らしたのであった。


こうしてこの1日半にも及ぶ列車の旅は、僕の心を満たすものなに一つ訪れることなく、それどころか、僕の体内にあるエネルギー源と僕の時間感覚を完膚無きまでに吸い取り尽くし、正真正銘空っぽになった僕の体を、きっちり時間通りに、一日中その暑さ止むことのない南インドまで運んだのであった。




2013年3月22日金曜日

僕とバラナシ

僕はバラナシを、歩いた。

頭に地図を描きたくて、歩いた。
混雑とにおいに嫌気がさして、対岸を歩いた。
朝食のパンを求め、歩いた。
犬に吠えられ、ハエに追われ、牛の糞を踏み、片言の日本語を無視し、地面に干されたサリーをよけて、歩いた。

時に死者を弔う行進とすれ違い、時に道を教えてくれた少女と共に童心に帰り、歩いた。


そして、沐浴場に腰を下ろし、ガンガーを眺めた。絡まるように乱立する寺院がつくる日陰に座った。太陽に焦がされた体をガンジス川に浸した。

僕は、ただバラナシに在った。
そして僕は、バラナシに飽きていた。
でもそれが居心地良かった。
僕は、ただバラナシに在った。

それだけ。ただそれだけで、バラナシは、いろんなことが起こるのだ。

聖なる生活を求め、あらゆる物を捨て去り、身に纏う物といえば、腰布と、笛の入ったオンボロの麻の鞄と、誇らしげに伸びた髭だけになった、ババと呼ばれるガンジス川沿いに棲息する人種の男に、バラナシの名の由来を聞いた。

骨を拾い集めては、それを一日中磨いてはたまに色をつけたり、なにやらかを施したりしているロシア人と出会い、対岸で拾った何かの骨で、ネックレスを作ってもらった。
「君がそれにみた価値を、君なりの形で表現してくれればそれでいい。物でも、君の国のコインでも、言葉でも、なんだっていいさ。」
お礼はいくら支払えばいいか尋ねると、彼はそう答えた。

全裸で生活をする者や、サリーに包まれた女性たち、インドの衣装を纏う観光客の中で、お洒落ににTシャツとジーンズを着こなすムスリムの青年と出会い、鼻の中が真黒になるまで、バイクでバラナシを駆け回った。
一日中笑って過ごした友達に、別れ際
See you someday
と言ったら、
When?
と答えた彼の切なげな目に、返事を出来なかったりした。

宿の屋上でヒッピーの奏でるギターの音色と、どこの国の言葉で何て言っているのかわからない歌声に、うたた寝をしたりした。

燃えて骨と灰になっていく亡骸を前に、死という逃れようのない事実を、悲しみも、さみしさも、こわさも伴わずに、ただただ無邪気で、素直に、受け入れた。



きっと、全ての物、人に、歴史があり、ストーリーがある。

けれど、このバラナシに混沌と在る全てのそれらには、強烈な引力があって、それは僕の意識まで支配して、この地に転がる数多のなんらかの機会と関わることは、実は僕の自由の範疇ではなくて、いつの間にか、気づかぬうちに、僕はバラナシの手の中で、転がされていたような気がする。


でもそれが良かった。
僕はバラナシに惚れていた。

2013年3月19日火曜日

インド入国、バラナシ

ルンビニで同じ宿だった日本人のユウヤさんと、インドに入国を予定している日が同じであったため、彼と一緒に、朝早くから国境の町スノウリを目指した。

ルンビニからスノウリまではバスとリキシャを乗り継いで、1時間もしないで着ける。
インドとネパールを物理的に隔てているのは、アーチ状の welcome to India と書かれた建物だけであり、イミグレーションなど介さずとも容易に通れるように思えた。

ただ、つながった空間は、そのアーチを境に、全く表情を変えた。
ネパール側はあまり活気のない小さな町で、砂利道が続く。
インド側はものすごいゴミの量で、臭い。しかし店は多く、道もわりと綺麗に整備されていた。

乗り合いジープに乗り込み、途中チャイ休憩をとり、渋滞にはまり、何頭もの牛を追い越したりして、ゴラクプルという街の駅に着いた。
ここから電車に乗り、僕はバラナシへ、ユウヤさんはコルカタを目指した。

電車のホームには、インド人がごった返していたが、外国人の姿はなく、皆がモンゴロイド顏でありながら金髪の僕を、好奇心に全身全霊を捧げて凝視してくるから、そいつら一人一人を睨み返しながら時間を潰していると、その僕の暇つぶし相手の一人が声をかけてきて、丁寧に電車の乗り降りのアドバイスをくれたのである。

しかし、僕が舐めていたのは、そのインド人の好奇心でもなく、電車の座席のテキトーさでもなく、ゴラクプルからバラナシへの距離だった。
日本という、小さな島国であらゆる感覚を育んできた僕は、インドという広大な国の中での距離感を掴むことに失敗した。
地図で確認すれば、ゴラクプルからバラナシなんて、およそ電車で2時間くらいだろうと思っていたことが、その失敗のつまるところで、インドは巨大だった。

結局、6時間ほど僕は電車に揺られた。
それは、車掌が運転をサボったわけでも、人身事故が起こったわけでもなく、ただそれだけの距離だったということである。

13時に走り出した電車に座った僕は、15時すぎにはバラナシに着くだろうと踏んでいて、優雅に風に吹かれ景色を眺めながら、どんなとこに泊まって何を食べようかなど能天気に考えていたのだが、実際バラナシに降りてみると、辺りは暗かった。

インドについて知っていることといえば、インドに関するブログに書かれたバラナシの大きな交差点の名とガンジス川くらいだったので、いささか僕は不安になった。

とりあえず、その交差点をリキシャに伝え、バラナシを進んだ。

クラクションがもう意味をなさないほど鳴り散らかる道を、渋滞にはまりリキシャを手で押したりしながら、無理矢理進んだ。

そんな中不安が募る一方の僕は、不覚にも、匂い、街並み、言葉、人間、バラナシをつくるどこかに、非インドを求めていた。どこか観光客向けの、浅草の仲見世通りとか、カンボジアのパブストリートとか、そんな場所を探した。

しかしこの欲求を満たすことなく、インド人で溢れる中をリキシャは進んだ。
進んだ。もう随分と進んだ。
まさか、このリキシャのジジイは僕が止まれと言わない限り、僕と旅を共にする気なのではないかと疑い始めたころ、リキシャは止まった。

ただそこには、非インドを求めていた僕が、実は1番求めていた、僕にとってのインドそのものが、無かった。

ガンジス川だ。

それはこの時の僕にとって、インドであり、バラナシであった。

宿よりも、観光地よりも先に、その姿をみたい。インドに来た確信が欲しかった。

もうすっかり夜だったけれど、リキシャのオヤジにガンジス川までの道を聞き、歩いた。

なんでこんなにも川が見たいのだろう。
やはりガンジス川には人を惹きつける何かがあるのか、それともただの僕のエゴであり、自己満足の為なのか。とにかく必死に歩いた。

15分くらいして、ようやく、姿を見せてくれた。
ガンジス川。もう22時を過ぎていた。
川沿いは街灯が灯り明るかったが、川は向こう岸が見えないほど暗かった。
犬やら牛やら、その糞やらが転がり、それに同化するように家なき人も転がり、静かだった。

なんにも実ってはいないのだけれど、大きな達成感を覚えた。



…さて。
川は広くてながい。ゲストハウスは見当たらない。右に行くか左に行くか。
あてもなく、右に行った。
最悪このうんこと一緒に野宿でもいいや。
達成感からか、疲労からか、そんな大胆な無気力さえあった。

少し歩くと、反対側から欧米人が歩いてきたので、安宿を知らないか尋ねた。
すると、彼らの宿の屋上にベッドがあって、そこでもいいなら50ルピーで寝れると言われ、一度野宿も決意した胸に、好奇心とヤケクソという名のチャレンジ精神も加わり、彼らについて行った。

川を右手に10分ほど歩いた。
突然、大きな寺のような建物が表れた。炎が揺れ、モクモクと煙が上がっている。もう深夜近くとなり、全ての店が閉まっていても、そこは異様な活気を保ち、熱と光を帯びていた。

火葬場だった。
誰がそう言ったでも、看板があったわけでもなかったが、そうわかった。

そのすぐ真裏が、彼らのゲストハウスだった。

言われたとおり、屋上に上がると、そこはレストランになっていて、目の下で燃え盛る火葬場とは裏腹に、酔いの回ったオヤジ達が大音量で音楽をかけてはぎこちないステップで踊っていた。
そのすぐ横に、ベッドがおかれていた。

スタッフに、ここで寝かせてくれと頼むと、幸運にも、部屋があるという。
今すぐにでも寝たかった僕は、このオヤジどもの横では僕の睡眠が妨害されることは目に見えていたので、疲弊し切った顔に思わず笑みがこぼれた。

少し待たされ、部屋に案内された。
そこには、大人一人が横になれる、ただそれだけのスペースがあった。
広さで言ったら、部屋と言われるより、便所とか、物置とか言われる方がしっくりきた。
そこに、屋上で干されていた布団が投げやりに敷かれ、部屋は埋まった。
もうそれは独房のようだったが、不思議と居心地はよかった。

扉を閉め部屋に閉じこもると、なぜか目が冴えてきて、眠れなかった。

僕は、小さな小さなその部屋で、大きな大きなインドという土地の距離感を捉えようと、しばらく地図帳を眺めていた。




ブッダの生誕地、ルンビニ

「天上天下唯我独尊」

なんて傲慢なやつだ。
初めてこの言葉を聞いた時、僕は仏陀に対してそんな畏れ多いことを思ってしまった。

インドの国境近くの小さな町、ルンビニ。
この地で釈迦は産まれた。

その、まさに釈迦がここで産まれたという場所は、幾多の人々が祈りを捧げた痕跡が、あらゆる形で残り、祈りは空気にも染み込んでいるようで、重々しく、静寂だった。

うってかわって、そのすぐ横にある、釈迦の産湯に使われたとされる池の周りには、何千何万もの曼荼羅の旗が、幾重にも重なり、ちらちらと鮮やかに風にたなびいていて、それがつくる程よく斑な日陰は、人々に安らぎを与えていた。

何億人もの生活を支え、人生の指針となり、生きる糧となっている、仏教。それを作った人がここで産まれた。そう考えると、やはりどこか感慨深い気もするし、専ら無宗教な僕にしてみれば、この感慨も浅はかなものなのだろうなとも思った。

一緒にみて回ったオランダ人女性が言っていた。

「私は宗教が嫌い。宗教は人を共存させず、引き裂き、争いを生むから。」

納得もするし、矛盾も感じた。
多くの人間が、神を信ずることで救われているのも事実だから。
ただ、真っ直ぐな意見を持っている彼女は、格好良かった。

翌日、同じ宿のベルギー人のカップルと、ウクライナ人の2人組と一緒に、他の所を見て回った。
この聖なる仏教の地の周りには、それにあやかるように、各国が寺を建てた。
タイ、カンボジア、スリランカ、日本、韓国、ドイツ、ブータン etc。
広大な敷地内に、これら各国の独特の仏教観念とデザインが施された寺が混在している。
一緒に回ったヨーロピアン達のお気に入りはドイツの寺。ものすごく派手で、内装がとても綺麗。

僕は…正直すごく感動するものはなかった。
どれも新しく綺麗で、人間との共存の歴史をあまり感じれなかったから。
人によって作られた宗教の拠点となり、人を支えるために建てられる寺には、人間が日々足を運んだ歴史があって、初めて価値があるように感じる。
だから僕は、そこで祈ったり、休んだり、遊んだりして、共存の歴史をつくろうとしている人たちを見ている方が面白かった。



2013年3月16日土曜日

ネパールのジャングル

ヘリコプターから窓とプロペラに邪魔をされたエベレストを眺めながらカトマンズに帰ってきた僕は、もうカトマンズになんの魅力も感じていなくなっていた。意気揚々としていたtop of the worldに見事に手鼻をくじかれた僕にとってここにいる意味はもうなかったし、ここにいたくなかった。

だから、もう僕はバスに乗っていた。

向かったのは、チトワン国立公園。
ネパールはヒマラヤ山脈に従ってどこも高所だと思っていた僕にとって、平野に草原とジャングルの広がるこの地は新鮮だった。

ジャングルの中は、いろんな音がした。
虫の音、枝の折れる男、葉の落ちる音、何かがそれを踏みしめる音。
中でも1番ジャングルに響いていたのは、クジャクの鳴き声。あの可憐な見た目からは想像できない、太くて大きな声。
野生のクジャクは高い高い木の上にいて、ジャングルに朝を知らせていた。

猿の群れが水を飲み、ワニが日光浴をし、鷹が獲物を見据える。丸まった葉に虫の生活を感じ、鹿の足跡にストーリーをみて、何かの糞に時間をとらえた。僕はその生態系に近づきたくて、息を潜めていた。

沼地に出ると、潜めていた息を、無意識に止めた。

サイがいた。

重厚な鎧をまとっているようなサイは、時折顔を沼に突っ込み、水を飲んでいた。

綺麗だった。シンプルで、力強かった。


ジャングルサファリが終わり、象が飼われている園によった。
餌付けされ、つながれる象をみて、空しさを感じた。

象は、生かされていた。
ジャングルで、動物たちは生きていた。
動物園では見られない、真の姿があり、そこに命を感じた。

だから僕は、園の外でひたすらに生活のために蒔きを割っている男をずっと見ていた。



2013年3月12日火曜日

旅プレイリスト

ブログではまだネパールでトレッキングを強制終了したところだが、実際今僕はインドの南、チェンナイからバスで4時間ほどの、その昔フランスに占領されていた街、プドゥチェリーという所で、沈みそうにない太陽と共に常夏の気分を味わっているのです。5分も歩けば、海岸。それに沿うようにフランス植民地時代の名残りある閑静な住宅が軒を連ねる。バラナシの喧騒が、同じ国の土地の中にあるなんて到底信じ難いほどに、まるでヨーロッパのような街並みを、ゆったりとした時が流れているのですが、なにぶん暑くて、かといって泳ぐことを苦手とする僕は浜に出ることもなく、部屋で今にも落ちてきそうな大きなファンを回しながら涼んでいるのです。

ここで!僕と旅を共にする曲たちを紹介しようと思います。暇なので!

曲名/歌手名
①曲に関するエピソード
②曲の中の好きな歌詞

こんな感じで紹介したいと思います。
早速。順番は適当です。

Little By Little/Oasis
①友達の紹介で知りました。数少ない洋楽の一つ。
②All the time I just ask myself "Why are you really here?"

PIANO MAN/Billy Joel
①有名。大好きなので入れました。兄の影響。
②Sing us a song,you are the piano man

SAWASDEECLAP YOUR HANDS/andymori
①大学1年生の時友達に借りたandymoriのアルバム『ファンファーレと熱狂』の中で1番好きな曲。旅にもぴったり。
②教えてくれ これから向かう街のこと 治安と言葉と食事と 教えてくれ こんなにも青い空の下惨めになって歩いて眠るよ

Life is Party/andymori
①Life is partyというフレーズが好きで、この曲をYouTubeでみつけて、聞いたら良かった。歌の中にインドが出てくる。
②勘違いの連続が僕らの人生なら

Sunrise&Sunset/andymori
①適当に見つけて、聞いてみたら良かった。ネガティブなことを明るく歌っていて、結局前向きになれる。
②悲しみは消えない

はぐれ雲けもの道ひとり旅/長澤知之
①友達に教えてもらったアーティスト。綺麗な声。
②君にとってこの生活が時折負担になったなら 恋しくなるまで旅をして 恋しくなったら戻ればいい

イージュー★ライダー/ユニコーン
①入れざるを得なかった。歌詞全てが旅の歌
②退屈ならそれもまたグー

さすらい/奥田民生
①歌詞全てが放浪の歌。
②さすらいもしないでこのまま死なねぇぞ

小さな恋の歌/モンゴル800
①飽きない名曲。ノリも良い。
②ほら あなたにとって 大事な人ほどすぐそばにいるの

イメージの詩/浜田省吾
①作詞作曲は吉田拓郎。桜井和寿さんも歌ってます。このプレイリストの中で、一番自分にはまる歌。
②古い船には新しい水夫が乗り込んでいくだろう 古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へ出る 古い水夫は知っているのさ 新しい海のこわさを

ぼくらが旅に出る理由/小沢健二
①旅人にも、旅人を見送る人にも、ぴったりな歌。
②遠くまで旅する恋人に 溢れる幸せを祈るよ

日曜日よりの使者/THE HIGH-LOWS
①僕の中のドライブソングNo.1
②たとえばこの街が僕を欲しがっても 今すぐ出かけよう

魔法のバスに乗って/曽我部恵一BAND
①曲名に惹かれて。PVは下北沢。
②魔法のバスに乗っかって どこか遠くまで

男達のメロディー/SHOGUN
①だん吉。まさに男を感じさせる歌。しびれます。
②走り出したら何か答えが出るだろうなんて 俺も当てにはしてないさ

白い雲のように/猿岩石
①言わずと知れた旅の名曲。すごく、懐かしい。
②ポケットのコインを集めて行ける所まで行こうかと君がつぶやく



以上15曲。
ぜひこの記事をみた人に、1曲でも聞いていただけたら、とても嬉しい。
コメントとかでも嬉しい。他にオススメがあれば教えてもらっても嬉しい。

2013年3月9日土曜日

高山病

いろんな美しさに彩られたトレッキング初日とは裏腹に、この日はどんよりしていた。今にも雨が降りそうだ。

この予感は的中し、昼過ぎには冷たい雨が降ってきた。昼食をとっていた僕らは、止みそうにない雨の中、合羽をきて出発することにした。

道のない川沿いを歩き、大量の家畜のロバとともに吊り橋を渡り、険しく急な山道を登っていくと、雨は雪に変わった。いや、僕らが雨に変わる前の雪の舞う雲の中に来たのかもしれない。

どんどん体力が奪われた。体を前に倒すことで反射的に出る足で歩いた。人間こんなに遅く歩けるものなのかと自分で感心してしまうほど、歩みは遅かった。

もう限界。もう本当に体力の限界というころ、村についた。村に入って20分くらい、宿についた。

もうほとんど無意識で、部屋に行き、布団に潜りこんだ。それとほぼ同時に、強烈な頭痛と、高熱に襲われた。

こんなに疲れているのに、眠れないほど、頭が痛かった。

トレッキング初日

予定より早い、朝4時すぎにガイドが部屋の前まで来て僕を起こした。
飛行機の時間を遅く勘違いしていたらしい。
慌てて身支度を済ませて、タクシーで空港へ向かった。

両翼にプロペラをつけた飛行機は、自家用ジェットと聞いて思い浮かべるそれに近く、とても小さく、狭かった。

10数名が乗り込むと、大きなエンジン音とプロペラ音をあげて、飛行機は危なっかしく離陸した。

窓をのぞくと、翼は上にあり、景色がよく見えた。そして空に浮くとすぐに、ヒマラヤ山脈が見えた。

朝日に照らされたヒマラヤ山脈は、昆明からの飛行機でみたときより、ずっと大きく、美しかった。

50分くらい経った頃、気圧の変化に耳が痛んだ。着地点、ルクラが近づいて来たのだ。
飛行機はぐんぐんと高度を下げる。たが、おかしい。辺りはまったく空港らしくない。平気で民家が並んでいる。
このままじゃ町に突っ込む!
と思った瞬間、突然足元に滑走路が表れた。
ルクラの空港は、滑走路が崖っぷちにあるのだ。

一杯甘く温かい紅茶を飲み、僕らは出発した。

雪化粧を纏った、高さ5000〜6000m級の山々。広がる畑の緑。土の匂い。サクナゲの花。チベット文字の彫られた大きな岩。たなびく色とりどりの曼荼羅の旗。ヤクの足音、それと呼応する首輪に吊るされた鈴の音。青白く流れる大きな川の音。

きれいだった。
のどかな春の陽気だった。



2013年3月7日木曜日

ワイルドなロシア人たち。

2週間のトレッキングをするため、ネパールビザの延長手続きを済ませ、宿のテラスで本を読んでいた。カトマンズは毎日快晴。日差しは強いが、湿度は低く、日陰はとても気持ちよかった。

その心地良さにページをめくることを忘れぼんやりしていると、白人に声をかけられた。

「この宿ってWi-Fi使えないの?」

ネパールは、電力の供給がとても不安定であり、そこらで停電や節電をしている。
僕の宿もそれに習い、Wi-Fiは17時からしか使えなかった。
そのことを伝えると、礼を言われ、何人か尋ねられた。

「Japanese」
と答えると、彼は嬉しそうに
「そうか!俺は日本人が大好きだ!フレンド。」
と言って、ハイタッチをした。
そして、小指と親指をたて、その親指を口に当て、クイッと上にあげる仕草をしてみせた。

「のもう。」

まだ昼の15時。酒好きな彼はロシア人だった。

彼の部屋にはもう一人友人がいて、3人でラム酒をのむことになった。

日本人の名前は難しいからと、RYOSUKEと紙に書いて見せると、独特のロシアン舌使いで僕の名を読んでいた。

「日本人はどこにでもいる。いろんなところで日本人と出会ったが、みんなとても親切だった。だから俺は日本人が大好きだ。兄弟よ、平和に、乾杯。」

素敵な乾杯の音頭だ。
日本人であることの誇りと、先の旅人たちへの感謝の念がこみ上げた。

ラム酒を2杯ほどのみ、タバコをふかし、適当に話をした。

また後でのもうと言われたが、
僕は明日早くにトレッキングに行くから、これが最後かもしれないと伝えると、
僕のノートにアドレスを書いてくれた。

「必ず俺にメールをよこせ。そして必ずモスクワに来い。友達とでも、恋人とでも、おまえ一人でもいい。おれがモスクワの全てを見せてやる!」

日も傾き始め、彼らは街に出ると言ってバイクにまたがった。
「どこへ行くの?」
と尋ねると、
「わからねぇ!」
と言って走り去って行った。


旅に出る前、行き先がわからないこと、それは僕にとって不安要素であったが、彼らはそれを楽しんでいた。
そして僕もそうとらえつつある。自由を求めて旅に出たのだ。それを楽しまないでどうする。


街は停電し、僕のこの先を暗示するかのように、暗闇の中裸電球がぽつりぽつりと灯っていた。

2013年3月4日月曜日

あるスペイン人の女性。

トレッキングの手続きをツアー会社で済ませて、宿に戻ると、新たな女性客がチェックインをしている所だった。
どこから来たか尋ねると、スペインからだと言う。
スペイン語をしっかり覚えておけばよかったと後悔するも、彼女は英語が堪能だった。

話していると互いに打ち解け、ともにご飯を食べることとなった。
彼女はガイドブックに乗っている行きたいレストランがあるらしい。

実はすごくお腹が空いていた。
機内食しか食べていない不規則な食生活を送っていて、間食もしていなかったからだ。かといってもう暗くなった街をあてもなく歩くのも気が引けていたので、彼女の提案には万々歳だった。

そのレストランはすごくおしゃれで、音楽が流れ雰囲気もよかった。

メニューもとても豊富だったが、せっかくなのでネパールチキンカレーを頼んだ。

食事をしながら、語り合った。
彼女はバルセロナに済む心理学者。
精神的な原因で職につけない人をカウンセリングし、仕事をみつけてあげる仕事をしている。いや、正確にいうと、していた。

彼女は仕事をやめ、家族と離れ、住んでいた部屋も手放し、インドに行った。インドを巡り、この日ネパールに辿り着き、僕と出会った。

人生どこの人とどんな経緯で巡り会うか、わからぬものだ。一期一会。

どこか似ている二人の境遇に乾杯した。

そのあともいろいろなことを話した。
家族のこと、互いの文化のことなど。
二人の旅の先のこととなると、「わからない」と二人で笑った。

けれど、お互いの無事を祈り、再会を誓った。
「スペインに来る時は、案内するわ。」
と言ってくれた。

この先どうするかわからない。それは時として不安を生むが、時にこんなに素敵な行き先を与えてくれる。

「必ず行くよ。」

そう言ってまた乾杯した。

サルート。

軽井沢、ハワイ、いやエベレスト!

昆明から飛び立った飛行機の下には、衛生写真のように大地が広がっていた。
大きな川、その支流に広がる田園地帯、まだ誰も足を踏み入れたことのないであろう山々。
それらは、ネパールに近づいていることを告げていた。

もうすぐ着地することを知らせるシートベルトランプが灯った頃、下ばかり眺めていた僕はふと視線をあげた。
雲を下に、広がる青空。
向こうの方に、鋭い形をした雲が、高い位置に並んでいた。
珍しい形だなと思っていると、それが雲ではないことに気づき、目を疑った。

それは山だった。連なる山々、ヒマラヤ山脈だ。雲を突き破り、厳かに在った。

思わず声の混じった溜息が漏れた。
不安に消されていた旅への興奮がよみがえり、不安を消し去った。
まばたきするのを忘れて、なぜか息を潜め、ずっと眺めていた。

空港を出て、タクシーに乗り込む。
タクシーの運転手に、
「ネパールで何をするの?」と聞かれ、「エベレストを見にトレッキングをする」と答えると、彼は嬉しそうに
「最高だね。Top of the worldだ。」と言った。
Top of the world。この国では決まり文句のように、よく見聞きする言葉だか、この時はひどく心に響いた。

僕の旅はここから始まる。
それはとてもクールなようにも思えたし、どこかあべこべなようにも感じた。


とにかく、ワクワクした。

昆明のコンビニ

昆明に着いた。
時間は21時過ぎ。
昆明を出発するのは、翌昼過ぎの14時。

幸い夜だったので、適当に出発フロアの端っこに寝袋を広げ、眠くなるまでもらった本を読んでいた。

ノドが乾き、うろつき始めたのは23時近く。
下に降りると、「便利店」という看板が見えた。漢字万歳である。

そのコンビニでは、一つしかないレジに10人くらいたかって、あーでもないこーでもない言いながら、売り上げを数えていた。
全く僕に気づかない。

声をかけると、一斉に僕を凝視。
少したじろぎながら、ドルは使えるか尋ねる。生憎元は持ち合わせてなく、替える気もなかった。

「どる?」と一人が聞き返してきた。
「アメリカンマネー。」と言い直すと、
「おーあめりかんどるぅ!イエス。使える」
だって。ほんとかよ。

とりあえずミネラルウォーターを2本レジへ持って行き、「How much?」と聞くと、
「…1dollar…笑」

なんだよその含み笑い!

と思いながらも、1ドル差し出すと、受け取るなり一同爆笑。

「これが1ドルだってさー!ウケるwダサすぎwww」
みたいな感じでみんなで1ドル札を回して、すかしてみたりしてた。

愉快愉快。
これは1ドルの価値も絶対わかってないな。損したのか得したのかわからんけど、そのゆるーい適当な感じが、微笑ましくて、和んだ。
だからよし。

お前そのボリュームだったら電話なくても相手に届くぜってくらい大きな声で電話するおばさんのダミ声を子守唄に、眠る。
たまにそうじのおばちゃんが容赦なく掃いてくるけど眠る。

北京強烈

北京上空は雲に覆われていた。
その向こうに薄っすらと、不自然なくらい整列した高層マンションと大きな川がみえた。


おかしい。
曇って透けるんだろうか。それに、茶色い。
雲じゃない。

土か、チリか、これが噂のPMなんとかというやつなのか、とにかく僕が雲だと思ったそれは、埃の層であった。

空と北京との間には、はっきり境界線があった。
飛行機が北京に飲み込まれた。

北京は夕暮れ時。
その層を通過して、夕焼けは淡く街を包み込んでいた。

しかし、浸っている時間はない。北京ではトランジットが1時間半しかなく、その中で一度荷物を受け取り、入国し、出国しなければならない。
急いで荷物コンベアーへ向かった。

ところが、僕の荷物は一向に流れてくることなく、コンベアーの上につけられた電光掲示板には、次の便名が映し出されたのだ。

慌てて近くのスタッフにたずねると、
「あなたは国際線のコンベアーよ。ここじゃないわ。」
と言われた。
なんだよそんなん知らん!無駄に30分くらい来るはずもない荷物を待ってしまった!

言われたところへ向かうと、無人のコンベアーの脇に無造作に僕の荷物が放られていた。

出発まで時間がない。
重い荷物を抱え、端の霞むほど広い空港を駆け回る。

ようやく、昆明行の飛行機に乗るためのチェックインカウンターを見つけたが、そこには行列が出来ている。
出発の時間まで、もう20分を切っていた。

チェックインカウンターで客を整列させるお兄さんにEチケットみせて泣きついた。
「これ乗りたいの。乗らなければならないの。」

するとお兄さん血相変えた!
僕からパスポートとEチケットを奪い、割り込んでいってチェックインを済まし、「ついてこい!」と走り出す!

やべかっけー。

「こっちだ!ここに荷物を預けろ!」
ともう閉まっていた所を開放してくれて荷物も無事あずけることに成功。

「しぇいしぇいー。しぇいしぇいー。」
と僕が言っても
「いいから走れ!」と僕の背中を押すお兄さんに、僕は幼き頃に見たヒーローの姿さえ覚えた。

ということで搭乗ゲートまでダッシュ!
足吊りそう!
300mくらい走ってようやく到着。

肩で息をし、汗をぐっしょりかきながら、飛行機に乗り込み、乗り継ぎが完了したことに安堵した。


足は吊った。


初心

2月20日、雲の上で、僕は最初の日記を書いていた。

これから中国で2回乗り継ぎ、最初の目的地、ネパールのカトマンズへ向かう。

2回目の乗り継ぎ地昆明では、17時間もの長い時間がある。
よって、カトマンズにつくのは翌日21日の午後だ。

旅が始まったような、でもまだスタート地点に立っていないような、中途半端な状況に比例して、僕の心情も心許なさと興奮の間にあった。

1年。この身一つであてもなくさすらう。ただひたすらに。

自分の足と意志がつながってないような気がして、自分の目に映るものと現実が一致してないような気がしていた。

でも、そのズレを修正するには十分すぎるほど、僕の最初のフライトは長かった。