2013年4月5日金曜日

アジャンターと仏と僕

僕が南インドを抜け出して西インドのアウランガバードに立ち寄った理由は、アジャンター石窟という遺跡群を見ておきたかったからだ。そのくせ、僕はこの遺跡に関する知識を、何一つ持ち合わせていなかったのは、相変わらずのことだ。
しかしこの遺跡はインドで何としても目に入れなければならぬ、いわば課せられた使命とも言うべきもので、それはどうしてかと言うと、ここは貴重な親族からのお墨付きであったからである。

といっても、一番近い大きな街アウランガバードからバスで片道3時間という孤高なこの遺跡は、近くに安い宿がないくせに日帰りするためには早朝のバスに乗らなければならず、僕の面倒くさがり気質に起因する「行かなくていいのではないか」という思いと幾度か葛藤した。

3月の最終日朝5時40分。僕はしっかりとアジャンター行のバスに乗り込んでいた。
3時間の道程は、襲いくる猛烈な眠気に丸腰でやられてしまおうと思ったのだけれど、荒い運転と粗悪な道路が心外にも僕を守ってくれて、一睡もすることができなかった。

仕方がないからチェンナイの宿に置いてあった日本語インドガイドブックのアジャンターのページを撮った写真を見た。この時初めて、僕はこの石窟が壁画で有名であるということを知った。
てっきりエローラやハンピのように岩をえぐったヒンドゥーの寺院が並んでいるとばっかり思っていて、そして正直その種の遺跡にはもう見飽きていたため、「壁画」という響きにアジャンターへの期待は高まった。

バスを降り、チケットを買い、急な坂を登ると、景色が開け、逆U字型の崖をえぐっていくつも寺院が作られているのがわかる。正直この光景は迫力に欠けていて、崖にぽつぽつと穴が空いているだけだ。

しかし一度その寺院の中に入れば、
僕に期待を与えた壁画は、さらにその期待をはるか上回ってみせた。


色味に富んだ鮮やかな絵が壁、柱、天井の隅々に至るまで描かれていて、その美しさ、壮大さ、そして寺院の外見からは想像も出来ない迫力たるや、時間が過ぎるのも忘れて見入ってしまうほどだ。


そしてもう一つ、この石窟で僕を虜にしたのが、仏像だった。このアジャンター石窟は、遺跡の全て(僕が見た限り)仏教寺院で、必ず一番奥に菩薩が彫られていた。

この、ヒンドゥーの神に埋もれたインドの仏を見たとき、またも僕は宗教というもの、とりわけ、自分の信仰心について、思う所があった。

僕はきっと、仏を見る度にいつも、よく考えれば原因不明の、オーラや威厳を感じていて、ここアジャンターの菩薩を目にした時にも、例外なくなにやら漠然とスピリチュアルな力がありそうな気がしてしまったのである。
しかし、今まで散々見てきたシバやガネーシャなどのヒンドゥーの神々には、そんな凄みを感じなかったことに気づいた。いや、気づいていたのだけれど、無宗教であるはずの僕にしてみれば、そんなことは当たり前だと思っていた。
でも僕は、仏様を前に、何か目に見えないものに少し圧されて、萎縮している。
きっと僕がシバやキリストをみてそうであったように、この仏をみてもなにも感じない人はいる。その人と、"無宗教"であるはずの僕は、大きく異なる。

誤解を恐れずに言えば、このアジャンターの菩薩を前にして、僕は仏教徒なのだなと思った。日本は仏教が根強い国だなと思った。

2回続いて神様に関するブログを書いているけれど、怪しい宣教師にあって洗脳されたりしているわけではありません。
この菩薩は僕の今までの考え方や生き方を、なんにも変えていないのだけれど、新たな自分を気づかせたかもしれない。
経典も、輪廻も、極楽も、どうだっていい。ただ、僕は「仏様」の存在は、どこかで認めていた。これは、信仰心なのかもしれないなぁ。

手の指が欠けた仏様は、微動だにせず静かに目を閉じていた。

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