2013年5月2日木曜日

温外知内

僕はインドに何の未練もなかった。
行き尽くしたなんて思っていない。インドのほんの一欠片も知っちゃいないことだってわかってる。

けれど、日もまたいだ真夜中、国民的英雄の名前が付けられたデリーの空港で、僕の胸に湧くものは、まだ見ぬ新たな土地への期待と好奇以外はなかった。


ウズベキスタン。中央アジアに位置するイスラム国家。サッカー好きな僕には、耳馴染みある国名。
首都のタシケントに着いたのは、薄明の早朝。初夏のインドから来た僕の服装には不釣合な風が吹いていた。

ここでは、ゴミ一つ落ちていない道を、セーターを着込んだ人が歩き、無駄に車幅の広い道路には、風に鳴く緑の並木。
つい数時間前までは、牛も犬も人間も一緒になって闊歩して、進めないほど混み合った道。それらが撒き散らす糞尿とゴミを、ヒビ割れた踵で踏みながら、銭をせがむ乞食。
気温も情景も温度差がありすぎて、次々と突きつけられる現実は、まるで雲のように掴みづらかった。


シルクロードを辿るように、ウズベキスタンの古都を巡った。
それらを結ぶ道は、低木が転がるように生える砂漠の中を、直向きに伸びる。空には魚のように雲が泳ぎ、そいつが時折太陽を食べては、ひとときの涼味を僕らに与えた。


それぞれの古都には、古のイスラーム建築物が、威厳と彩りを街にもたらしている。

特に、マドラサという宗教学校を指す建築物に付随するアーチに青いタイルで施された模様の美しさと抜かりなさには、度々息を飲んだ。
サマルカンドとブハラにあるマドラサに、人面のある太陽が描かれているものがある。至る所に神々の姿がみられるインドとは異なって、イスラム教では偶像崇拝は禁じられている。その教義に反したこの模様は、当時の支配者が、己の権力を誇示するためにつくらせたものらしい。驕り高ぶったその先で、人は勘違いを繰り返し、時に信ずるものを裏切ったりして、いずれ散っていく。この絵にみたそんな人の脆さは、滑稽ですらあった。

しかし、西の都ヒヴァの町を囲む城壁に登って、街に沈んでいく夕日を眺めていたときに、ふとその調子付いた支配者と自分が重なったのをみた。
澄んだ空気に輪郭を崩さず落ちていく太陽が放つ、夜の前の僅かな光のあがきの中で、街は静かだった。この生気のない街並みと肌寒さは、インドの喧騒に揉まれて忘れていた寂しさを、僕に思い出させてくれた。
インドは、あたたかかったのだ。寂しさを感じなかったのは、あの溢れる生命力の、ぬくもりに包まれていたおかげなのに、それを「僕は強い人間である」などと勘違いしては、人を信じることや、支えてくれている人の存在を疎かにし過ぎていた。
橙に染まったヒヴァの街は、僕が太陽に顔を描く前に、僕の弱さを知らしめてくれた。

遠くや近くにいる誰かの支えの中で、時にそれにしがみつきながら、僕はようやく生きている。日本にいたときからずっと、僕は自惚れていたのかもしれない。

城壁から見渡すヒヴァの街は、昼間歩いてみて感じていたものより、ずっと小さかった。
外側に出てみて初めて見えるものは、内側のことだったりするのだ。






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