自然は美しい。
湖沿いの小さな村、ボコンバエワから山の方へうねる砂利道を15kmほど進むと、ボズ=サルクンと呼ばれる高原に辿り着く。純白を纏った山が、ぐっと近くなる。
馬に乗った遊牧民が、犬を従えて、羊を誘導する。何十匹もの羊が、一斉に右へ、左へ、彼らの思うように進む。
遊牧民は、風と共に、山と共に、生きていた。
彼らを見ていると、これまで抱いてきた、「自然は美しい」という考えに、亀裂が生じた。
人間である彼ら遊牧民も、美しかった。それはキルギスタンの自然に感じたものと同じ美しさだった気がした。
と同時に、きっと無意識に、目を背け、忘れたふりをしていた事実に気づかされた。
人も自然の一部なのだ。
この大地、水、空は、僕とは別世界でも、他人事でもなく、僕はその一部で、それらは僕の一部なのだ。
それならば、ただ美しいと傍観するだけでなく、責任や使命やあるべき姿がこの僕にもあるのだ。
僕は、そのことに向き合おうとしていなかった。僕のやることなすことは、ヒマラヤ山脈とも、インド洋とも、キジルクム砂漠とも、無関係のこととして生きてきた。きっと多くの人がそうではないだろうか。
しかし、人と自然は、切っても切れない関係なのだ。自身について自覚のないことは危険だ。いつからか、人のためは自然のためじゃなくなり、自然のためは人のためではなくなった。僕らはこのズレを、修正しなければならないのではないだろうか。
利益をひたすらに追求し、短いサイクルで消費することを良しとした社会で生きてきた僕らにとって、それは難しいことかもしれない。
けれどそれは、地球の自然を共有する者として、本来当然のようにこなすべきことで、つまり、至極シンプルなものなんじゃないだろうか。
広く美しい高原を踏む僕の足元には、誰かの捨てたペットボトルが転がっていた。
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